Entry tags:
Higanbana no Saku Yoru ni - Misomiso-san - Japanese Transcription
[TRIGGER WARNINGS]
The text under this cut describes acts of rape, torture, and death. Even if it is in japanese, I still feel the need to warn for mature material. Please use discretion while reading this material, thank you.
Anyways yep, here it is, first part of the project I'm doing. Let me just copy paste some stuff from tumblr as a preface o/
I’m going to be dumping some text onto dreamwidth when I’m all done. I’m thinking about doing it in three parts. First, the japanese text ripped from the game. Second, the japanese text, line for line, with the rough atlas translations under it. The third would be me proofreading atlas’ rough translations to make a clear understanding of the events that take place.
However, this should not take the place of a patch, because I do not know Japanese and I do not pretend to know. I have two goals in doing this.
1] To satisfy the curiosity of 07’s fanbase until a patch is done by someone who knows Japanese.
2] To aid anyone wanting to do a patch.
If anyone wants these uploaded as text files just let me know and I'll do so. Telling me what format you'd prefer it to be saved in would be nice too.
You can also contact me at goldlaced[at]gmail[dot]com
男がトイレの個室を出ると、そこには少女が一人残されているだけだった。
少女の姿は、…一言で言えば異常だった。
上履きに靴下。
それは、ここが学校であることを考えれば何もおかしいことはない。 背負っているのは赤いランドセル。 それは、ここが学校であることを考えれば何もおかしいことはない。 そして着ているのは、上下の下着。 下着を着けていることは別におかしいことでも何でもない。 ……だが、下着姿でトイレの個室にいたことは異常だったし、その姿でランドセルを背負っているのは異常だった。そして男と女子トイレの個室に二人でいたことも異常だったし、……ここでどのようないかがわしいことが行われていたのか、想像し得たとしても、それは全て異常という言葉以外の何で示されるものでもなかった。
少女は、男の足音が遠のき、自分が無人の旧校舎の忘れられたトイレに一人っきりになったことを思い出すと、そのまま床にへたり込み、めそめそと哀れな涙を零し始めるのだった……。
学校には大勢の生徒がいて、女子だってその半分を占める。 ……だから、この“少女”のことをいつまでも少女と呼称するのは適当ではないだろう。 だから、彼女の名誉やプライバシーを、私たちの好奇心だけで引き裂くならば、その名はあっさりとここに明かすことができる。
少女の名は、森谷毬枝(もりや まりえ)。 *年8組の生徒で、飼育委員を務める心やさしい少女だった。 成績は平均。得意教科はなく、苦手教科は体育。…その意味では平均よりやや劣る成績と言えたかも知れない。 毬枝の履歴を見ると、班長や委員など、クラスの役職に就くことが多いことがわかる。 でもそれは、彼女に使命感があったからではなく、悪意ある押しつけに対し、彼女が断るだけの強さがないことを示していた。
彼女も、そんな弱い自分と決別したいと日々思っていた。 ……だが、思うだけで自分を変えられたなら誰も苦労などしない。 だから毬枝は、自分すら愛せぬまま、今日という袋小路を迎えていたのだった……。
毬枝が望まぬことをいつから強要されているのか。 そしてどのような破廉恥な行為を強要されているのか。 ……それについて詳細に説明する必要は何もない。 望まずして、少女は穢し続けられている。それだけが、現在の彼女の置かれている状況を簡素に説明できる言葉なのだから。
どうしてこのような悲しい運命に迷い込んでしまったのか。最初の切っ掛けは本当にささやかで下らないものだった気がする。 ああするしかなかった。他に方法がなかった。断る術がなかった。それが常に、最善だった。 にも関わらず、状況は一向に改善しなかった。 ひとつの弱みを補うために求められる代償は、次なる弱みを誘い、代償のために代償を支払い、さらに代償を求められる。 ……蟻地獄にも似た、終わりなき悪意の螺旋だった。 すでに毬枝は多くの弱みを男に握られ、口にするのもおぞましいような数々の辱めを断ることもできなくなっている。
毬枝には、このようなことを相談できる友人はいなかった。 家族はいたが、そのようなことを打ち明けられるような信頼関係を結べていなかった。
森谷家には子供は3人いたが、毬枝以外の姉たちはとても優秀だった。 自分だけがいつも底辺で、ただ生きているだけでも、日々、姉たちの優秀さと自分の無能さを突きつけられた。 次第に毬枝は卑屈になり、学校でも家庭でもひとりになろうとするようになった。 悩み事を相談すれば、姉たちの偉業と比べられ、また居心地が悪くなるに違いないと恐れた。 ……だから、このような蟻地獄に落とされた時、家族も含め、相談する相手が誰一人思いつかなかったのだ…。
彼女なりに考えた最善は、常に裏目裏目に出続けた。 押しつけられた飼育委員すら断れなかった彼女に、どうして悪意ある罠が振り払えるというのか。 ……だからこれはつまり、…彼女にはとてもとても気の毒なのだが…、当然の結果だった。
毬枝はのろのろと衣服を身につけると、再びランドセルを背負う。 ……その背負う重みに、先ほどまで強要されていた数々の辱めが思い出された。 だから毬枝は、いつの頃からかランドセルを背負うだけでも、あの男の支配を受けているように感じるのだった…。
……どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。 宙を泳ぐ金魚がいたならば、水面で口をぱくぱくさせなければならないに違いないと思うほど、酸素の薄れた空気の中で、私はぼんやりと考えていた……。
一番最初、悪かったのは確かに自分だった。 私はしてはいけないことをしてしまい、それを先生に見つかって咎められた。 それはとてもとてもいけないことで、もしクラスメートに知られたら、きっとまた虐められてしまうに違いないような、…そんなことだった。 だから、それを内緒にしてもいいと先生が言ってくれたとき、……私は少なからず先生に感謝の念を感じたのだ。
……その代償として求めてきた行為が、どんなに異常なものだったとしても。
私は長いこと、ずっと虐められてきた。 幸いにして今は虐められていないが、それは、クラスに私よりも虐められている子がいてくれるからというだけのこと。
だから、私は再び虐められる生け贄羊に戻らないためには、どんな代償だって安く思えたのだ。 ……それくらいに、生け贄羊の役は、辛いのだから……。 だからこそ、初めの内は、どんなことを求められても耐えられた。
クラス中から虐められる恐ろしさや悲しさに比べたら、先生の言うことを聞くのはまるで難しいことじゃない。 先生は、放課後に私を呼び出す時以外は私を虐めないし、むしろ私を虐めようとするクラスメートを叱ってさえくれた。
そう。先生は私にささやかな辱めを強要したとしても、私を守ってくれていたのだ。 だから私は、身を守ってくれる恩返しに、先生の望むことをしてあげるのは当然の奉仕だと思って耐えてきたのだ。 先生の求める行為に罪悪感を覚えるのは私の問題で、先生自身はそれらの行為にいつもとても満足し褒めてさえくれた。 ……だから、私は良いことをしているのだと思い込もうとがんばってきた。 ………でも、先生の欲求は止まることを知らない。 先生が私を守ってくれることに対する感謝の気持ちとして捧げていたはずの行為は、今では先生のために私が施さなければならない義務と化し、かつてはたまの放課後だけに呼び出されていたはずの関係も、徐々に他の時間にも浸食するようになり始めていた。
授業中に仮病を使って抜けるように命令されたり。休日にも学校に来るように命令されたり。 今では学校生活は副次的なものとなり、私は平日も休日も、先生が望んだ時、望んだことを捧げなければならない身となり果てている。 平穏な学校生活を守るために耐えてきた苦役は、今や私の平穏を侵し始め、何のために捧げている行為なのか、その意味すら分からなくなり始めていたのだ……。
……でも、先生は確かに私をいじめっ子たちから守ってくれる。 今日だって、私の教科書をいたずらしようとした男子たちを全員廊下に並べて、真っ赤になるくらいに平手を打ってくれた。そして私に謝罪させてくれた。
だから、…先生が悪い人だとは思えない。 むしろ先生は、いじめられっ子の私を守ってくれるいい先生なのだ。 ……だから私が先生の望みを聞くのは、それに対する当然の感謝なわけで……。 それに対し、不快に感じるのはつまり、私が感謝の気持ちを忘れかけているということで……。
……私は、先生が良い人なのか悪い人なのか、…それすらもわからなくなり、……ただただ今日もいいなりになり、下着姿にランドセルを背負うよう命じられ、……先生の日頃の疲れを労うよう命じられただけだった……。 それが辛く感じるのは、私に感謝の気持ちがないからなのだ。 先生が守ってくれなかったら、私はきっと今頃クラス中に虐められている。 …それに比べたら、…こんなの全然、……平気……。 そうわかっているはずなのに、……私はめそめそと泣き続けるのをやめることはできなかった……。
被害者の名だけが明かされ、犯人の名が明かされない理不尽は新聞だけで充分だ。 だからここでは、森谷毬枝に理不尽な運命を強いる男についてもその名を明かすべきだと思う。
すでに少女の独白でも明かされている通り、男は毬枝の担任だった。 名は、金森義仁(かなもりよしひと)。 若くて線が細く、落ち着いた振る舞いの中にもユーモアを忘れない、憧れる女子も多い人気のある教師だった。
だが、それは容姿だけの問題だ。 その内面は、彼に憧れる少女たちのささやかな好意を踏みにじってなお余りある、最低のものだった。
かつて聖職を志した頃、彼は高潔な人間だったかもしれない。
だが、多忙な現実は彼の現実感なき理想などすぐに霧散させる。 ……やがて彼は、多忙かつ報われない日々に対し、理不尽な怒りを抱くようになっていった。
これだけ自分は滅私奉公をしているのに、それを誰も自分に感謝しない。 自分の零す汗だけが無駄に滴り落ちるだけ。 ……なのに、世の中にはそんな自分の苦労の上にさも当り前のようにあぐらをかき、うまい汁だけを吸っている連中がたくさんいるのだ。
自分はすでに報われて当然の苦労を充分に積み上げた。 それに対し、誰も自分に報いないなら、自分で自分に報わなければならない。 だから、これまでの自分の苦労を考えれば、これくらいの逸脱は当然の権利であると、自分勝手な理論を次第に蓄積させていくようになった。
……それは、無自覚の怒りだったに違いない。 その怒りのはけ口を他者に向けなかったなら、彼はそれでも高潔な教師であり続けられただろう。
……だが彼は、それを他者に向けた。こともあろうか、自分の教え子の少女にだった。 だからその時点で、その高潔な生い立ちに関係なく、彼は最低の男であることに間違いなかった。
彼は今や学校に来る目的は、将来の社会を担う少年少女たちに学問を教えることではなく、少女を思うがままに蹂躙して報われない自分を慰めるためだと自覚までしているのだ。 それに対し、金森が罪の意識を持ったのは本当に最初の最初だけだ。 弱みを握り、自分の欲望に何の枷も付けることもなく吐き出せる快楽は、彼から罪の意識を奪うのに大して長い時間を必要ともしなかったのである……。
朝の気怠い職員会議は、いつ終わるとも知れず、長々と続けられていた。 通信簿の評価にクラスごとの格差があり保護者から苦情が云々。市内の学校でプールを媒介にした皮膚病が流行ったので、タオルを共用しないよう指導を厳しく云々。 つい昨年までは一線の教師だったとしつこく繰り返す教頭は、偉ぶり、職員室の中で我が物顔で発言をできる悦にすっかり取り憑かれてしまったようだった。
そんな中、私の心は、早く放課後になって毬枝をいつもの旧校舎のトイレに呼び出し、どのようにして自分の欲望のはけ口にしてやろうかという、どろどろとした妄想でいっぱいに満たされていた。
プール開きが始まり、学校指定の濃紺の水着が眩しい季節になった。 ……下着にランドセルという組み合わせにもそろそろ飽きてきたところだ。今度は学校指定水着にランドセルでも背負わせてやろうか。 …きっと、誰も見たことのない、滑稽で馬鹿馬鹿しい格好になるに違いない。
そんな滑稽な格好も、私が命じて準備させれば、翌日の放課後には実現でき、何一つ逆らうことのできない少女に好きなだけ妄想をぶつけることができるのだ。
1人の少女を支配すること。 ……これだけの犯罪的行為で、まるで自分はこの職員室にいる誰よりも高みに達してしまったように私は錯覚することがあった。 ……多くの哲学が、人間が達するべき高みについて問い掛けてきた。 私は、どうすれば自分の人間としての格を上げることができるのか、他人に見下されているように感じずに済むのか、若い日に真剣に悩んだことがある。
でも、その解決方法はこんなにも身近に転がっていたのだ。 誰かを支配し、その上に立つ。 それだけのことで、私は子供の頃から拭えなかったコンプレックスを克服することができたのだ。
だからこそ、自分は今や、誰からも見下されているように感じることはなく、それどころか、生徒のいないところで下世話な話に花を咲かせる同僚たちを見下す優越感にさえ浸ることができたのだった。
……だが同時に、すっかり影を潜めてしまったはずの、怯えの心がわずかに残ることも自覚していた。
思いのままに少女を自在にできる日々は、今日も明日も明後日も続くだろう。 ……だが、来年も再来年も十年後も続くわけがない。 森谷毬枝が一生徒に過ぎない限り、やがて進級し、卒業する。彼女を取り巻く環境は変化し、いつしか私の支配が及ばなくなる時が来るだろう。
その時、疎遠になったカップルがいつの間にか別れてしまうように、綺麗さっぱり終わってくれればいいが、それに期待するのはあまりに無謀だった。
私が毬枝に強いてきたことは、まったく言い訳の余地なく犯罪だ。
私からの解放を望む彼女は、決して誰にも言わないといつも誓うが、それは私の支配下にあり、逃げ場がどこにもないからこそであって、状況や立場が変われば、すぐにでも豹変し、警察に通報するに違いない。 ……例え、今がどれだけ従順であってもだ。
人は心の底から屈服したりなどしない。 いつか訪れる解放の日までを、もっとも風当たりが少なく過ごす方法として、屈服して見せるだけなのだ。 森谷毬枝は、いつかきっと自分を裏切る。
だからこそ。……私は、この心とろける日が一日でも長く続くように。そして、それでもいつかは必ず終わりを迎えるこの日々が平穏に終わることができるよう、少しずつ考え始めていた…。
始めに思いついたのは、彼女が卒業してからも支配を続け、永遠に私を裏切らないようにすること。 ……だが、永遠を維持することなど人の身にできることではない。 となれば、この日々が必ず終わることを前提に、綺麗に終わらせることを考えなければならないのだ。
綺麗な終わりとは、どのようなものなのか。 永遠に裏切らない保証がない相手を、永遠に裏切らないと信用できるよう終わらせるのはどのようなものなのか。 それを突き詰めた時、…行き着いた答えは非常にシンプルだった。 その回答は、テレビや映画にいくらでも溢れていた。だからすぐに思いつくことができた。
……この頃から、……私の心の中に、……いつしか、森谷毬枝を殺サナケレバナラナイという考えが芽生えるようになってくる。 少なくとも、今の時点では毬枝は従順だ。 家庭環境に不和を抱えるという彼女は、家族にも相談できず、元々いじめられっ子なので、クラスにも相談できる友人はいない。 だから、彼女が従順である内に、確実な方法で彼女を葬ってしまうべきなのだ…。 私の手の平に、じっとりと嫌な汗が溜まるのがわかる。……そう、これはツケなのだ。
1人の少女を蹂躙し欲望のはけ口にするという、許されぬ罪に対するツケ。 だが、そのツケの支払い方は、罪にさらに罪を重ねるという非人道の極みだ。
………でも、私より悪いやつはいくらでもいる。 私は今日まで、いや、今日以降も、滅私奉公を続け、誰よりも高潔に教職であり続ける。 担任を精力的にこなし、部活の顧問や保護者とのトラブル、それらを誰に愚痴ることも、誰に報われることもなくこなし続けている。 だから私は、これまでの功績を考えれば、この程度の悪事を差し引いても、まだ悪人とはなり得ないはずなのだ。
世の中、うまくやったヤツだけがのさばれる。うまくやれないヤツはいつまでも利用され続けてくたばって死ぬ。
ただそれだけのこと。 俺はその当り前の原理ってヤツを、森谷毬枝に特別授業で教えてやってるだけじゃないか。 ……それに気付けないヤツは、生涯を誰かに支配され、屈服して生き続けていくしかない。詐取され続けて当然なのだ。
……とにかく、毬枝はまだ従順だ。 ……いつもひと気のない旧校舎のトイレに呼び出しているが、場所を変えて呼び出すことも可能だろう。 ひと気も証拠も何もないところにうまく呼び出して、絶対にバレない方法で殺してしまうことはできないか……。
ゆっくり考えよう。必ず完璧な方法が思いつくはずなのだ。 だが、それを今日明日までに大急ぎで用意しなければならないわけじゃない。…今日明日程度では、毬枝は私の支配から逃れられることなどあるはずがないのだから。
今日はどのようにして欲望を吐き出してやろう。卑猥な妄想に再び頭の中が満たされていく……。 その妄想は、予鈴によって教頭が長話を打ち切るまで、ずっと続くのだった。
「めそめそさんが出たんだって。」「めそめそって泣いてたのを聞いたんだって。」
学校は子供の国だ。…だから、子供の中でしか通用しないような、妙な迷信が横行しているのはよくあることだった。 廊下を歩いている時、ふと聞こえたそれは、最近、その名を聞くようになった新しい学校妖怪のようだった。
学校妖怪というのはアレだ。 例えば、夜中に踊り出す理科準備室の骨格標本や、目が動くという音楽室のベートーベンの肖像。どこの学校にもあり、そして大して代わり映えのない学校怪談によく登場するあれらのことである。 学校の七不思議なんて呼ばれたりもするアレだ。
この学校ではどんなものが七不思議の妖怪なのかはよく知らないが、どうせどこかで聞いたことがあるようなものばかりだろう。
子供たちが話しているのは「めそめそさん」という妖怪らしい。その名のとおり、めそめそと泣く妖怪らしい。 実に子供らしい、安直でいい加減なネーミングだった。 くだらないと思い、足早に通り過ぎようとした時、私の足が自然に止まる。 こんなことを言い出したのが耳に入ったからだ…。
「うん。めそめそさんはね、旧校舎の女子トイレに出るんだよ。そしてね、個室の中で、めそめそ、めそめそと泣いてるの。誰が泣いてるんだろうって思ってね、個室のドアを叩くと、中からこう聞こえてくるの。」
“めそめそ、めそめそ。そこの人、どうか哀れな私の話を聞いてください。” ……………………ッ。 私は背筋に、ぞぉっとしたものが這い上がってくるのを感じずにはいられなかった。 子供たちが話している「めそめそさん」は、妖怪でも何でもなく、…本当に実在するかもしれないからだ。
旧校舎のトイレの個室の中で、めそめそと泣く何者か。 そして、それにどうしたのかと話し掛けると、“哀れな私の話を聞いてください”と話し掛けてくる。
私は硬い唾を飲み込み、霜柱でびっしりになりそうな頭を必死に働かせる。 ……それは妖怪なんかじゃない。 毬枝。………森谷毬枝のことなのではないのか。
二人で一緒にいるところを誰かに見られたら、無用の勘ぐりを受けることもあるかと思い、いつも放課後の逢瀬を終えた後は、私が先に出て、その後に時間をおいてから出るように言っている。
……つまり、自分が先に出て行った後には、毬枝がひとりでトイレの個室に残っているのだ。 そこに、何の気まぐれか旧校舎に入り込んだ生徒が誰かやって来て、……個室の中でめそめそと泣く彼女の声に引き寄せられたとしたら…。 毬枝は、自分のことを打ち明けようとしたに違いない。 ……ところが、そこへやって来た生徒は、それを妖怪だと思い込み、逃げ出したに違いないのだ。
それは、……何という偶然なのか、奇跡なのか。私は知らずして致命的な危機を回避していたのだ。 もし、その生徒が妖怪だなどと思い込まず、毬枝の話に耳を傾けていたならば。 …今頃、私は檻の中にいたに違いない。 …その偶然の奇跡に、私は今さらのように冷や汗を流さずにはいられなかった。
「でね。めそめそさんに話し掛けられてもね、決して話をしちゃいけないんだって。もしもね、めそめそさんと話をしたり、その正体を見ようとして扉を開けたりしちゃったらね、…………………大変なんだって。」「大変って…?」
「…トイレの中に引きずり込まれて、全身の骨を砕かれて殺されちゃうんだって。だから、決して話をしようとしたり、姿を見ようとしてはいけないんだって…!」「怖い怖い怖いー!」
「でもさ、旧校舎のトイレなんて、普通、行かないよね! だから、めそめそさんが出てくるトイレに近付かなければいいだけの話だもんね!」「近寄らない方がいいよいいよ、絶対いいよ。だって、わざわざ行って、本当に個室の中にいてめそめそ泣いていたら、怖いもん…!」
……は、…ははははははは。 その話を聞き、私は思わず吹き出さずにはいられなかった。
森谷毬枝の泣き声を誰かが聞き怪談にしてしまった。そこまでは危険な誤算だった。 ……だが、だからそのトイレには近付かない方がいい、という論法になるとは夢にも思わなかった。 救いを求めたはずの毬枝の泣き声は、皮肉にも逆効果となり、生徒を寄せ付けなくしてしまったのだ。
女子たちは迷信深い。この手の迷信に自ら踏み込むような真似は決してしない。 逆に男子はこの手の話を非常に好む。だが、女子トイレという場所は思春期直前の男子にとっては、どのような理由があっても、踏み込んだことが知られれば、囃し立てられることになる禁則の場所でもある。
つまり、めそめそさんの怪談は、より一層、あのトイレに人を近付けなくしてくれた、と言うわけだ。
………いや、それは楽観し過ぎだろう。 ほとんどの生徒は怪談を恐れてくれるだろうが、これだけ大きな学校なのだ。1人くらいは恐れ知らずの生徒がいるに違いない。 たった1人と言えども、私たちの秘密を生徒に知られれば、私の身は破滅する。 ……私は事態が緊迫していることを再び認識しなければならなかった。
今日も放課後に、いつものように旧校舎トイレに毬枝を呼びつけていた。 ……それを最後に、しばらくの間は様子を見た方がいいかもしれない。 少なくとも、旧校舎トイレに代わる校内の死角を見つけられるまでは様子を見るべきなのだ。 本当の本当に私が慎重なら、……今日の毬枝との逢瀬も見送るべきなのだ。 だが、………愚かしい男の性。 私は毬枝を奴隷化したつもりでいて、…実は毬枝の奴隷となってしまっている。
今の私にとって、すでに日々は耐え難い苦痛であり、毎日の終わりに、その苦痛を癒す手伝いを毬枝に強いねば、ただの一日も堪えられないほどであった。 毬枝に私のことを飼い主だと呼ばせておきながら、実際に飼われているのは自分の方なのだ。 毬枝にとって、私に呼ばれない一日は安息の一日だろうが、私にとって、彼女を呼び出さない一日は癒せぬ苦痛に喘ぐ一日なのだから。
だから私は、あのトイレにもう呼び出すべきではないという緊急性を感じていながら、でも今日の呼び出しはキャンセルしたくないという矛盾を持っていた。 今日、如何にして彼女を蹂躙するか、そのことで朝から頭がいっぱいだった。 それをお預けにしたら、私の頭はどうかなってしまうに違いない。
だから、危険を承知で、今日も私は毬枝を呼び出す。 しばらくの間、呼び出せなくなってしまうのだから、今日は心ゆくまで思い切り、いつまでもいつまでも楽しんでやるのだ……。
あぁ、毬枝……、毬枝、……愛しているよ……。 お前も、お前の体も、狂おしいほどに、……愛している……。 ま、……毬枝ぇ……。ふ、ふっふひひひ、はは、は……。
……無論、毬枝の耳にも、めそめそさんの話は及んでいた。 めそめそさんの話は毬枝の8組の、噂好きな女子たちの間でも持ちきりになっていた。
「怖いね…! 旧校舎のトイレなんてわざわざ行かないけど、ますます使いたくなくなっちゃうね!」「でも怖いー! 旧校舎でなくても、閉まってる個室をノックして、中から、めそめそ…なんて聞こえてきたら嫌だよね…!」「どうする? そこのトイレでさ、ノックしたら、“めそめそ…、そこの人、どうか哀れな私の話を聞いてください…”なんて言われたら!」
「やっだーーー!!! あははは! 逃げる逃げる! 返事しただけで全身の骨を砕かれて殺されちゃうんでしょ? やだやだやだー!」 ……それを聞きながら、毬枝は悲しい気持ちになっていた。 どうしてみんな、中の人の悩みを聞いてあげないのだろう……。
毬枝も自覚していた。…多分、それは自分のことなのだ。 よく覚えていないが、以前、それまでに一度も要求されたことのない酷い事を強いられた時、…辛くて悲しくて、解放された後に涙が止まらなかったことがあった。 …その時、トイレに誰かがやってきて、……あまりの悲しさから助けを求めたくて、そんな風に語り掛けたことがあった気がするのだ。
そして、…その怪談が伝えるように、扉向こうの誰かは逃げ去っていってしまった。 その話はいつの間にか怪談となり、…自分はいつの間にか、めそめそさんという妖怪にされてしまっている。 誰かに助けを求めたくても、話を聞いたりしたら全身の骨を砕かれて殺されてしまうことになってるのだから、誰も話など聞いてくれたりはしない……。
……悲しかった。自分のたった一回の勇気を、妖怪の仕業にしてしまった誰かが恨めしかった。 でも、………妖怪というのも悪くないかもしれないとも思った。 いつ終わるとも知れない悪夢の日々に、もう毬枝の心は灰のようになっていた。
……最近、マンションのエレベーターを待つ時、眼下を見下ろしていると、8階という高さにも関わらず、アスファルトの大地がとても柔らかく、慈しみを感じられることがあるのだ。 家にも学校にも居場所がなく、これからも行き先がわからない自分を、本当にやさしく受け止めてくれるのではないか。……そう思うようになっていた。
でも、死は単なる逃避でしかない。自ら認める敗北で、解決にはなり得ないのだ。 ならばせめて、自分を弄ぶ先生に、何か一矢を報いたい……。 でも、非力な自分がどんな仕返しをできるというのか。
先生が自分に強いてる行為は、全ていけないことだとわかっている。 自分に破滅する覚悟があるならば、全てをさらけ出し、先生を道連れにすることもきっとできるのだ。
先生は、私に強いた数々の行為の一部をホームビデオで撮影していたことがあった。…そして、もし自分を裏切るようなことがあればそれをばら撒くとも言っていた。
……自分に破滅する覚悟があるなら、先生を道連れにすることもできよう。 でも、破滅した後の自分には、多分、生きているだけでも辛い辱めの日々が待ち受けているだろう。 …その恐ろしさは、復讐したい気持ちと十分、天秤にかけられるものだった。
どうしても逃げられないなら、自殺しかない。 ……でも、できることなら死にたくない。 死なずに復讐することはできないものか……。 そんな都合のいい方法、あるわけがない。
……復讐など出来ず、それでも生きていたいなら、……結局、今日も放課後に、決められた時間にあのトイレに行って先生を待たなければならないのだ……。
……だから、思う。……自分が本当に『めそめそさん』という妖怪になれればいいのにな、と。 めそめそさんは恐ろしい妖怪で、相手を引きずり込み、全身の骨を粉々に砕いて殺してしまう恐ろしい力を持っていると言う。 ……そんな力が自分に与えられたなら、……きっときっと、あの男に復讐できるのに…。
あの男はいつも私をチューインガムのように扱う。……噛んで噛んで、噛んで噛んで、味が出尽くすまで噛み尽くして、…最後にぺっと吐き出して捨てて、勝手に服を着て勝手に帰れと言い残し、勝手に帰って行くのだ。 だから私にめそめそさんの力があったなら、……私もあの男を噛んで噛んで、噛んで噛んで噛んで、全身の骨を粉々に砕いてから、ぺっと吐き出してやるのに……。
それはつまり人間をやめて妖怪になりたいということだった。 人間をやめるという意味においては、自殺とそんなに意味は変わらない。 でも、単に人間をやめたいというだけでなく、別のものに生まれ変わって復讐したいという点において大きく違っていた。
最近、私にもうっすらとわかるようになってきていた。 学校は、人生の縮図なのだ。学校程度でいじめられる人間は、社会に出ても何も変わることはない。また同じ役目になるだけだ。
学校にいる内に、いじめられっ子を抜け出せない人間は、生涯、いじめられっ子から抜け出せはしない。 そして、…自分は抜け出すことのできない人間なのだろう。
だから、私がこのまま人生を続けても、どうせいいことなど何もない…。 社会に出ても、また先生のような男に囚われ、抜け出せない日々に再び戻るだけに決まっているのだ……。 ……そこまで理解しながら、自ら死を選ぶだけの勇気が持てない。 だから、妖怪になって復讐したいなどという、前向きなのか後向きなのかもわからない、妙な考えになってしまうのだ…。
どうすれば、めそめそさんになれるのだろう……。 どうすれば、自分は学校に数多ある学校妖怪の一員に加われるのだろう……。 みんなが噂するめそめそさんは、本当は自分なのだ。でも、自分はみんなが噂するような妖怪ではない。
「……めそめそさんは私なのに…。……どうすれば、……本当のめそめそさんになれるんだろう…。」
毬枝はそんなことをぼんやりと考えながら、放課後の指定された時間まで、図書室でぼんやりと時間を潰していた。 だから、それは小声の独り言だったはず。 聞く者があったとしても、何を言ったのか聞き取れない程度の小声だったはず。 なのに、…その小声に対して返事があったので、毬枝は驚かずにはいられなかった。
「………ということは。あなたが噂のめそめそさん…?」「……え…?」
毬枝の前には、いつの間にかひとりの少女がいた。 もちろん面識のない子だった。 一学年にクラスが10を超えることもあるマンモス校だ。転入、転校も激しい。 同じ学年であっても、面識のない子などいくらでもいた。 その子の身なりはとても上品…、というか、豪華だった。
まるでピアノの発表会でもあるかのような、綺麗で豪華な身なり。…まるで、美しいドレスを着たお人形がそのまま人間になったような、そんな身なりだった。 それはもちろん顔立ちや髪型もだ。手入れだけでも相当の時間を掛けて丁寧にしていることがすぐにわかった。 でも、…目つきもお人形のようだった。とても美しく、まるで宝石のよう。…だけど、血の通った温かさを感じることはできなかった。
服装や髪型に対しては、お人形のようというのは褒め言葉になるだろう。……でも、目つきに限り、お人形のようと例えるのは、褒め言葉にならないときもあるかもしれない。 …毬枝はこの少女の目つきに対し、そんな印象を感じていた。
この子は、同級生だろうか。上級生だろうか。…もし上級生だったなら言葉遣いに気をつけないと……。 だから毬枝は、せめて相手の学年だけでも知りたくて、目の前の少女の名札を見ようとする。 でも、雨に滲んだような名札で、よく読み取ることができなかった。
「私の名札より、あなたの名札が見たいの。……見せて?」
「…え? あ、…あ、…ご、ごめんなさい…!」 毬枝の腕が名札を遮る形になっていたので、その少女から名札を見ることができなかったのだ。 また、自分が名札を覗き込んでいたことが悟られていたので、毬枝は慌てながら自分の名札を見せる。
「8組の子なのね。この学校は生徒がいっぱいいるからよくわからないわ。うふふふふふふ。」 その少女は、毬枝が8組の生徒だとわかって満足そうだったが、毬枝には少女の名札がぼやけていてよく読めない。 このような上品な服装でも、学校規定の名札を欠かさないところに、何だか不思議な滑稽さを覚えた。 毬枝はがんばって目をこらし、何とかクラスだけを読み取ったが、それも何だかおかしかった。
だって、B組と読めたからだ。 ……アルファベットのクラス名などこの学校にはないはずなのに…。でも名札の書式はこの学校のものだ。 それ以上をじろじろ覗き込んでいると失礼に当たると思い、毬枝は名札を見るのをやめた。
「森谷毬枝さん? 最近の子の名前は難しくなる一方ね。…私の名前も負けないけれど。彼岸花(ひがんばな)って呼んで頂戴。よろしくね、毬枝?」
「え、…ぁ、……はい。よ、よろしくお願いします…。」 少女が名乗る彼岸花という名が、名前なのか苗字なのか、毬枝には判断がつかなかった。 でも、彼女と一対一で話す限り、特に名前を呼ぶ必要はない。 ……毬枝は無理にその名を記憶に留める必要もないだろうと思った。
すると、彼岸花と名乗った少女はくすりと笑う。 …それはまるで、その名を怪訝に思ったことを見抜かれたかのよう。 見抜かれるはずのない感情を気付かれ、毬枝は少しだけぞっとするのだった。
「それで、さっきの話なんだけれど。……あなたはめそめそさんなの? それとも違う?」
「…えっと、……あれは、……その………。」 毬枝は何と答えて良いかわからなかった。
おそらく、めそめそさんの怪談の原因は自分にあるから、その意味では自分は間違いなくめそめそさんだろう。 ……でも、生徒たちが噂するような妖怪ではない。 だから毬枝は、どう答えればいいかわからなくて、しばらく困惑しなければならなかった。
彼岸花は、そんな毬枝の様子を見てくすりと笑う。 まるで、毬枝が口に出さなくとも、その胸中がわかっているかのようだった。
「……この学校は、こんなにも大きくてたくさんの子供が集まっている。知ってる? 妖怪はね、人の想いに集まるの。だから、こんなにもたくさんの生徒がひしめく学校だったら、並の学校よりもたくさんの妖怪が集まってくるのよ。」
「あなただって知ってるでしょ? 学校の七不思議。学校に住まう七大妖怪。普通の規模の学校なら七つも席があれば充分なんだけれど。これくらいの大きな学校だと、七席以上があってもいいとは思わない?」
「……だからこの学校を統べる妖怪の席数を増やさないかって話が出てるのよ。それで席数を増やそうという話になったら、ちょうどよく、めそめそさんという妖怪が現れたという話だから、どんな子かなって思って、ずっと探していたの。……でも驚いたわ。だって、いざ見つけてみたら人間だったから。くすくすくすくす……。」
「わ、……私は、…その、…妖怪じゃないですけど、………その……。」
「でも、めそめそさんなのよね? 別に人間だからダメってことはないと思うわよ。七席の中にも、元は人間ってのもいるしね。私は違うけれど。……くすくすくすくす。」 彼岸花はくすくすと笑う。美しいお人形が調度品に囲まれて優雅な仕草をするように。 ……だけれども、動くはずのない人形が笑うかのような不気味さも同時に持ちながら、くすくすと笑う。
毬枝は決して夢見がちな少女ではなかったが、……直感した。 彼岸花は人間ならざる存在に違いないのだ。…そして、めそめそさんという新しい妖怪が、自分たちの新しい仲間に相応しいか品定めに来た、ということに違いない…。
「あの、…………ひ、…彼岸花さんは、………妖怪なんですか…?」
「えぇ。クラスでは“踊る彼岸花”って呼ばれてる、七席の序列第3位。一応、保健委員もやってるのよ。保健室になぜか置いてあるお人形。あれが夜中にひとりでに踊り出すっていう怪談、聞いたことない?」
「……え、………あ、……ご、ごめんなさい…。そういう話はよく知りません……。」
「あらそう。…堪えるお言葉をありがとう。」 そこで初めて彼岸花は表情を曇らせて口を尖らせた。…自分の名を毬枝が知らなかったことが不愉快だったらしい。 だが、その表情を見て、ようやく毬枝は意思の疎通ができていることを実感する。 自分を学校の七不思議に連なる妖怪だと自己紹介する彼女が何者なのか、未だわかりかねていたが、少なくとも悪い人ではなさそうだった。
「あの、…彼岸花さんは、……何をしにいらしたんですか…? め、…めそめそさんを、仲間に迎えるため、…ですか…?」 毬枝は恐る恐る聞く。 友達を持ったことのない毬枝にとって、例え素性の知れない、それも自分を妖怪だと名乗る少女であっても、自分を仲間に迎えたいとやって来てくれることに、実は小さな喜びを感じていた。
妖怪の仲間に加わる、ということは、人間としての生を終えろという意味かもしれない。 …ならば、自分はこの彼岸花という妖怪にこの場で祟り殺されてしまうのか……。 ……でも、それも一興だった。 このままあの男に慰み者にされる日々を永遠に繰り返さなければならず、自ら死を選ぶ勇気もないならば。……今この場で彼岸花に祟り殺されて、彼女の仲間に加えてもらえた方がずっとマシだと思った。
「………ふぅん。人間をやめる覚悟はあるってわけ。」
「は、……はい。」
彼岸花はにやりと笑うと、値踏みするように毬枝の頭のてっぺんからつま先までをじろじろ見る。 この頃になると毬枝は、彼岸花には言葉に出さずとも胸中を読み取れる力があることを疑わなくなっていた。 ……そう心の中で思うと、その通りと言わんばかりに彼岸花はもう一度にやりと笑うのだった。
「なら、本人の意志は問題ないってことね。気に入った。序列の第8位に“めそめそさん”を加えるよう、うちのクラスの学級会で推薦する。多分、あっさりと決まると思うわ。めそめそさん、みんな気に入っているもん。……くすくすくすくすくす。」 彼岸花は上機嫌そうに笑う。
でも、毬枝が瞬きをひとつすると、笑い声は聞こえているのに姿は消えてしまい、……もう一度瞬きをすると、今度は声も消えてしまい、もう一度瞬きした時には、気配すらも消え去ってしまっていた……。
だからそれは、あっという間の出来事。 ……毬枝は焦り、彼岸花の姿を探すが、二度と見つかることはなかった。 消えたことにより、…彼岸花が人間ではないということがわかった。そんな存在から仲間として受け入れようと言ってもらえたことに嬉しさを感じた。
だが、消えたことにより、…今の出来事が全て自分の白昼夢に過ぎないのではないかという恐れも生まれた。それを払拭したくて、彼岸花の姿を探す。
でも、……見つからない。 妖怪の姿は向こうが望まぬ限り、人間の目に映ることはないのだから…。 ……今の出来事は果たして真実なのか、…それとも逃避したい自分が見た、束の間の白昼夢なのか。
毬枝は、彼岸花の存在を、……信じることにした。 今の鮮烈な体験が、自分の妄想のわけがない。 私は学校妖怪に誘いを受け、……人間を終え、ようやく苦難に満ちた日々から抜け出す道筋を見つけたのだ。 人の身を捨てれば、きっと私を慰み者にした先生に復讐する力が得られる。
でも、人を呪わば穴二つ、というのも理解している。 全てを失う覚悟なくして、復讐など成し得ないのだ。
……人間をやめる覚悟。今日までの生活を全て捨てる覚悟。 それを自覚した時。……毬枝は心の中に、ほんのわずかに灯った感情があった。
だが、その感情が何かに気付く前に、時計の針は、旧校舎トイレへ行かねばならない時間が来たことを告げる。
彼女は再び無表情な、……彼岸花以上に人形のような蒼白な表情に戻ると、とぼとぼと旧校舎へ向かうのだった。 心の中に灯った何かが、どういう感情なのかを考えながら。
……その感情の名は、覚悟。…あるいは決意だった。 彼岸花に、自分は人間をやめる覚悟があることは伝えた。 あとは彼女のクラスの学級会で、めそめそさんの存在が認められるのを待つだけだ。 ……認められたなら、私は学校に住まう妖怪として迎えられるだろう。 多分、私の命は失われ、人としての生を終えるという通過儀礼を経ることになるはずだ。 つまり、……私はもうじき、人間の生を終える。 ならば、駄目で元々…。自分が人間の身である内に、たったひとつの勇気を試してもいいのではないか……。
毬枝は項垂れながら旧校舎のトイレを目指す。 でも、その握り拳は、小さくだけれど力強く握られていた…。
「……先生。…お、……お話があります。」 毬枝がそう切り出した時、金森は直感した。 彼女との禁じられた関係は永遠に続くものではない。いつか何らかの形で終わる日が来る。 ……そして、その日がついに訪れたのだと直感した。 だから毬枝が、今日でこの関係を終わりにしたいと、たどたどしい口調で言うのを聞きながら、聞き終わる前にそれを全て理解するのだった。
だが、今日という日がやがて訪れるのを理解していたにも関わらず、それがまさか今日だったとは思わず、金森は少なからず焦っていた。 この日がやがて訪れることを理解していながら、どう切り返すかまったく考えてこなかったことは明白だった。
「……そんなことを言っていいのかい…? 君と先生のことを録画したテープだってあるんだよ…? あの恥ずかしいテープを誰かに見られてもいいのかい…?」
「……誰かに見られるのは嫌ですけど……、…でも、見られて困るのは先生も同じだと思います。」
「………む………。」 非道の限りを尽くしてきながらも、それでも金森は大勢の生徒を相手に観察眼を養った教師でもあった。…だから、毬枝の様子を見て確信する。 毬枝は何かを切っ掛けに決別を切り出す勇気を持ち、…しかもそれを口にしながら、自らの言葉でますますに勇気付けられているのだ。 こういう手合いはまずい。丸め込もうとすればするほど、かえって頑固になっていってしまう…。
……しかし、あれほど内気で従順だった毬枝が、なぜこれほどの勇気を突然に持ったのか。
……ま、まさか、誰かに打ち明けて相談したのか…? それは自らの破滅を意味する。……そうなるリスクと背中合わせの日々であることは、誰より自分が知っていたはずだ。 だがその危険性を、日々の快楽に溺れすぎて忘れていた。脅迫用のテープがあれば、それだけで屈服できると甘えていた…。
毬枝に強いてきた行為を録画したのは、もちろん保険の意味だけではなかった。…自分の下劣な欲求を満たすための行為のひとつでしかない。 だが、それは都合よく、彼女の裏切りに対する抑止にもなってきた。…行為を録画したテープが脅迫になるという、ある種のステレオタイプが毬枝には通用したのだ。 ……だが、支配最大の砦だった録画テープによる脅迫もあっさりと否定され、今や毬枝を支配し続けることのできる枷は何も存在しなくなっている…!
「……こ、…このことを誰かに話したりしたのかい…?」
「……い、…いいえ。まだ誰にも話していません。」
「も、…もし誰かに話したりしたら、……先生も、あのテープを……。」
「わ…私もそれは嫌です…。ですから、その、……先生があのテープを捨ててくれるなら、私も誰かにしゃべったりしません。」 金森はわずかに安堵する…。 まだ毬枝は誰にも話していない。まだ私の身に破滅は訪れていない…。 まだ手遅れではない、まだどうにかできる……。 毬枝がどう強気に出ようとも、あの録画テープの存在は彼女にとって永遠にアキレス腱なのだ。 だから、それと対等な条件として、彼女が私のことを誰にも話さないというのは妥当な話だ。
でも、…だからといって、毬枝がずっと口を噤んでいてなどくれるだろうか…? ……今はまだ私のことを恐れていてくれているからいい。互角の立場くらいにしか思っていないからいい。
だがもし、彼女がさらに勇気を持ち、刺し違えてでも私を警察に突き出そうと思ったなら……。 私はそれを防ぐことなど何もできない。 警察は瞬く間に私を取り押さえ、アキレス腱であるテープをばら撒かせる時間など与えないに決まっているのだ。 第一、彼女を脅す時、私がいつも繰り返し口にしてきたテープのばら撒き。…それに実際はどれくらいの時間と手間が掛かるというのか。 無理だ。ポケットに忍ばせたスイッチひとつで彼女が破滅させられるほど簡単ではないのだ。 それに比べたら、警察に駆け込んで事情を話すほうがはるかに容易…! ……毬枝が立場を互角だと誤解してくれている今だけが均衡状態なのであって、……もし、立場が圧倒的に違うことに気付いたなら、すぐにでもその均衡は破れるだろう。しかもそれは、自分の努力ではもう防ぐことができない…!
つまり、………すでに均衡は破られているのだ。 毬枝はまだそれに気付いていないだけ……。 今日この場は、納得したふりをして誤魔化すこともできる。 だが、今夜にも彼女は警察に電話をするかもしれない。……もう、毬枝に私の支配は及んでいないのだから。 そう。姿が見えなくなったら最後。もう、いつ牙を向いてもおかしくないのだ……!
……なのに、毬枝はその絶対的な状況にまだ気付いていない! 何と言う愚かなヤツ! そのくらいに鈍感で間抜けで、所詮はいじめられっ子の器なのだ。 ……そんな間抜けにッ、今日まで努力を積み重ね、名門高校、名門大学、そして教師と駒を進めてきて、やがては教頭、校長とさらに高みに登っていく自分の足下をさらわれることになるなんて…! 私は理不尽な怒りに腸が焼かれるのを感じる。 とにかく、………今この場で何かの決着をつけなければ、私は明日の朝すら待てずに破滅する…!
今こうして、毬枝が目の前にいる内に。 今こうして、トイレの個室の中に二人っきりでいる内に。 今こうして、無人の旧校舎に二人っきりでいる内に、…何とかしなければ!! そこまで至っているなら、答えはあまりに簡単だ。 そして、その答えは頭が理解するより、手が行動に移す方が早かった。
………アトハ、全テ異様ナ光景………。
視覚はどろりと歪み、世界の全てを荒れる水面越しに覗くような気分だった。 それは視覚だけじゃない。…聴覚も、触覚さえも、全てがどろりと澱んで荒れる水面越しのよう。
その澱みの向こうに自分は手を突っ込み、毬枝の細い首を捻り潰そうとする。 …それはまるで、幼少期の記憶の、小川でフナを素手で追いかけた時を連想させた。
……あの頃の私の夢は何だったっけ。総理大臣だったっけ、ジャンボ機のパイロットだったっけ。…それがどうしてこんなことになっちまったのかなぁ…。……こうして、小川でフナやザリガニを追い回していた頃が一番、楽しかったのになぁ…!! 毬枝が痙攣しながら、宙の何もありはしない虚空を睨んで、口から涎とも泡ともつかないものを垂らし始める。 そうさ、毬枝の息の根を止めるのも、フナやザリガニを苛め殺すのも、こんなにも同じ感触だったのだ。結局、生き物は、人もフナもザリガニさえも、大して違いはなかったってわけさ…。……くくく、ひひひひひひひひひひ!!!
いくら絞めても至らない、芯の芯を絞め潰してやるため、最後の渾身の力を込める…! ……そして、……至った。
痙攣するような毬枝の抵抗は、全身の緊張が解けていくように、少しずつ失われていき、………最後には、自らの体重を支えることもできないくらいに脱力した。
首を掴んでいる手に、毬枝の全身の重さが掛かる。 ……毬枝がもはや自立しておらず、私の手の力だけに頼って直立しているフリをしているのは明白だった。
だから、私が両腕の力をわずかでも緩めれば…、するりと手を抜けて、崩れ落ち、重力に従うのは当然のこと。 ……毬枝は、壁を背負いながら、…それでも壁との摩擦を利用して、崩れ落ちる時間にすらささやかな最後の抵抗を見せると、……とうとう床にうずくまった。
それは、崩れ落ちて座り込んだのとはまったく異なる。 人だったら、座る時に、着衣が乱れないよう気を遣った座り方をする。…でも、毬枝の座り方にはそういう気遣いは一切感じられなかった。
着衣を乱し、あられもなく捲れたスカートの裾。それを直そうとする恥じらいすらも一切なくし、……毬枝はそこに座っていた。 いや、座るという表現はもう適当ではない。 毬枝はそこに、死んでいた…。
………殺人を犯したという実感が急激にこみ上げてくる。 でもそれは恐れでもなければ自戒でもない。…どちらかというと、あれだ。 ……おつまみのピーナツの袋を開けようとしたら、威勢よく中身を絨毯の上に全てブチまけてしまって、その惨状を見ながら、掃除が面倒臭いなぁとぼやきたくなるような、…そう、ある種の面倒臭さだ。
もう殺してしまった。後悔したってどうにもならない。…なら、後悔は不要だ。 毬枝が死んで、自分が生きているなら、…自分はこれからもしゃあしゃあと生き続ける。そのためには、毬枝の死体を隠さなければならない。
…どこへ? 今は咄嗟に思いつかないが、ほんの少しの冷静さを取り戻せば、いくらでも思いつくだろう。 それにナイフで刺したわけじゃないから目立つ痕跡が残るわけでもない。 もう放課後も遅い時間だ。生徒の人影は全て消えている。教師だって、自分の仕事が忙しくて、校内のことなんか気が回らないさ。…ましてや、旧校舎のトイレで殺人が行われていて、これから俺が死体をどこかへ隠すなんてことにまで気が回るヤツが、いるわけもない…!
「………はぁ、………はぁ、…………はぁ……。」 そこでようやく私は、浅からぬ呼吸をしていたことに気付く。 ……やはり私は、自分がそうだと思っているほどの冷血漢ではないらしかった。 落ち着け、何も焦ることはないんだ…。落ち着け、落ち着け……。
……………………? その時、廊下の遠くから、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。 歩き方の特徴から、おそらく生徒の誰かだろうと思う。 ……しかし、こんな時間の旧校舎の、それもこんなトイレに何の用だってんだ…?!
……そうだ、このトイレには確か「めそめそさん」とかいう妖怪が出る、という噂になってたんだっけ…。 迷信深い生徒たちのほとんどは近寄らないが、……生徒の中には物好きもいる。近寄ってはならない場所だと脅されれば脅されるほどに、わざわざ近寄ってみようと思う好奇心の強いヤツが1人はいるもんだ…。
その足音は、すたすたと歩くのとは違う。……一歩一歩がゆっくりで、非常に慎重に歩いているのがわかった。…息も殺しているように感じる。 ……だから私はもう完全に想像がついていた。 このトイレに出るという妖怪、「めそめそさん」の噂を確かめるため、誰かが度胸試しに1人、わざわざこの時間にやってきたのだ。 …………となれば、この生徒は、……このトイレに入ってくる?
私と毬枝の死体は、トイレの個室の中にあり、扉を閉めている。 ……つまり、トイレに入れば、個室内に誰かがいることは一目で看破されてしまうのだ。
…まずいまずいまずい……。 毬枝の死体を万が一にも見られてはならないし、私がこの時間にここにいたことを知られるのもまずい……。 どうするどうする、どうするどうする……。
全身から脂汗が噴出す。 ……毬枝を殺した時には、汗ひとつかかなかった冷血漢気取りの私が、……度胸試しの生徒が1人紛れ込んできただけで、これだけ狼狽できるものなのか…! そうしてうろたえている間にも足音は着実に近付き、今やそこまで迫ってきていた。
……ぺた、…ぺた。……………………ぺた…。 その足音は、トイレの入り口で一度止まり、…この個室の扉が閉まっていることを知って、息を呑む。
そして、……閉まっているように見えるだけで実は無人なんだろう、どうせ…、という想像を確認するために、…そろり、そろりと、トイレ内に踏み入ってくる…!!
そろり、……そろり……! どうしようどうしよう、どうしようどうしよう…!!!
そろりそろり、そろりそろり! 頼む、そのまま引き返してくれ、頼む、そのまま引き返してくれ…!! そろりそろり、そろりそろり!!!「………………………ッ!!!」
1秒が1時間にも感じられ、粘つきながら時間が凍える…。 そして、……ノック…!!
……コンコンコン……。
は、…はぁッ!! た、叩かれた…、ノックされた…!! ノックは中に人がいるかどうかの確認だ。こ、ここで中にいると返事をしなかったら、無人なのになぜ閉まってるのかと、よじ登って中を覗いてくるかもしれない。あるいはもっと簡単に、しゃがみこんで、扉の下の隙間を覗き込んでくるかもしれない。どちらにしたって、1人以上の人間がいるという異常事態を理解してしまうッ!!!
じゃあ、ノックし返さないと…! ノック、…ノック…!! でもそうしたら今度は、中に誰がいたのかなんて興味を持つんじゃないか! それはまずいまずいまずい!! 姿を見られてはならない、見せてはならない!!
ああくそああくそああくそくそくそッ!! 扉越しでなかったら、この度胸試しの間抜け生徒も、毬枝の後を追わせて沈黙させてやるってのにッ!!! でも2人はまずい、1人でもヤバイかもしれないのに、2人も殺したら今度こそ隠しきれる自信がないッ、こいつの友達が校舎の外で帰りを待ってるかもしれないじゃないか、ぅううぅあああぁあぁぁああぁ!!!
……口に出すこともできない叫びが胸の内側を満たし、それは頭の中を空っぽにさせ、真っ白な霧と瞬くような花火を感じさせた……。 自分が自分でなくなったような、…現実逃避感。 そして、もうどうにでもなれという、無責任さが宿った時、…自分でも想像しなかった、大胆な言葉が私の口から零れた…。
“………………めそめそ、…………めそめそ……。” ……それは「めそめそさん」の口上。 扉の向こうから、低学年の少女の、ひッという息を呑むにも似た短い悲鳴が確かに感じられた。「…………めそめそ、…めそめそ。………そこの人、どうか哀れな私の話を聞いてください…。」 哀れっぽく。…そして、めそめそさんだったら、…いや、毬枝だったらそう言うだろうとイメージしながら、それを口にする。……裏声で、か細く。 扉の向こうが沈黙している…。 こ、…こんな三文芝居じゃやはりどうにもならないのか……?! そんな焦りが滲み出した頃、沈黙が扉の向こうから破られた。
「で、
……出たぁあああぁああぁああぁぁあぁぁ!!!」
それは間違いなく低学年女子の悲鳴。…出た、という言葉は普通、オバケに遭遇した時に言うものだ。 ……つまり、その度胸試しの少女は「めそめそさん」に遭遇した、と信じたのだ。
やって来た時の慎重さが信じられなくなるくらいに、どたばたと騒がしい足音が遠くへ去っていく。
は、………はははははは、…はははは! やったぞ、…やったッ!
馬鹿笑いに全身が脱力しそうになった瞬間、撃退を確信した瞬間に、私の体は電光石火のように動いた。 毬枝の体を担ぎ上げ、このトイレから飛び出す。このトイレにもうすぐ大勢が駆けつけるかもしれないからだ。
度胸試しは1人でやるものじゃない。どうせ、ジャンケンで負けて、罰ゲームとしてここへ来させられたに決まってるのだ。 なら、出たと聞かされた仲間たちは、一斉にここへ駆けつけてくるだろう。
毬枝を担ぎながら、私は個室を振り返る。……深夜タクシーを降りた時、忘れ物をしていないか確認するように。 大丈夫。……ない。 ……何の痕跡もないはずだ。 なら急げ! ここはいつまでも安全じゃない!!
トイレの手前の空き教室の1つに飛び込み、毬枝の体を教壇の影に隠すと、自分も息を潜めて様子を伺った。 ……予想通り、4人くらいの女子が騒々しく騒ぎながら廊下を駆け抜けていった。
……ここでひょっこり現れて、廊下を走るなと彼女らを叱って追い出すか? いや、無理にそんなことをする必要はない…。今はここで息を潜めていた方が得策…!
やがて、4人の賑やかな女子たちは、確かに見たとか見てないとか、そんなことを口々に言い合いながら、興奮した様子で戻っていく。 ……それでもしばらく息を潜めた後、完全に旧校舎に静寂が戻ったことを確認し、…私はようやく安堵の息を漏らすのだった…。
辺りはもう、だいぶ暗くなり始めていた。 私は、使われていない倉庫に一時的に毬枝の体を隠すと、職員室に戻って残務を片付けるふりをしながら夜を待った。
この学校は、近年から機械警備を取り入れたため、宿直はいない。…だから深夜を待てば、確実に無人になった。 機械警備などというと、まるで監視カメラなどで厳重に警戒しているような印象を受けるが、そこまで大げさなものではない。 校内全ての扉や窓に、開放していないことを確認する器具が取り付けられているだけだ。 しかもそれは、最後の職員がセットした後にしか働かない。 だからつまり、最後まで残れば、校内は完全に無人の隙だらけになるのだ。
そして、………校内が完全に無人になった深夜の暗闇の中、私は毬枝の体を倉庫から引っ張り出し、……プレハブ校舎にあるトイレ小屋裏にやってきた。 このトイレはかなり古い汲み取り式で、巨大な便槽が地下に埋まっている。 本来は、下水道化すべきなのだが、このプレハブを作った当時はあくまで仮の校舎で、すぐに取り壊すつもりでいたらしい。 それが、取り壊されずいつまでも使われ続けているため、水洗便所と汲み取り式便所が同時に存在するという歪な状況になってしまっているのだ。 時折、バキュームカーが汲み取りに来るだけで、中身を完全に空っぽにしているわけじゃない。ましてや、その底を覗き込むわけでもない。 ……だから、この便槽の中に放り込んでしまえば……、誰にもわかるはずはない。
……いつかはバレるかもしれないが、それは遺体が白骨化するほど未来の話だろう。 便槽の中で糞尿に塗れてウジに食われ、白骨化した死体に何の痕跡も見つけられるものか。 ……遊んでる時に誤って落ちたと思うのが精一杯さ。
便槽の汲み取り口の蓋を開ける。 ……むわっとした悪臭の熱気がこみ上げ、一瞬たじろぐ。 それから、改めて懐中電灯で毬枝の体を照らし、不審な点がないことを確認した。 ……大丈夫だ。運んでくる途中で靴が脱げてしまって、校内のどこかに残っている…なんてことにはなっていない……。
その時、小さな違和感。 ……………………右腕の、袖のボタンは…? 毬枝の着ていた服は、袖に飾りボタンがついたものだった。 見れば、左腕にはちゃんとついているが、右腕にはついてなくて、手首がほんの少しはだけていた。
……どこかでボタンが落ちてしまっただろうか…。…いや、それとも、今日の初めからボタンはなかった…? ………たったひとつのボタンを探して校内を探し回るのは不可能だ。 私は、そんなことに悩むよりも、毬枝の体を一刻も早く放り込む方が大事だと気付き、躊躇なくそれを実行する。
深く、意外に広いらしい便槽内に反響して、ドポーンという音は、少しだけ不気味な彩りを添えた後、夜の虫の声に飲まれて消えていくのだった…。
便槽の蓋を元通り被せる。 ……大丈夫。何もわからない。誰にも見られてない。
そのまま早歩きで職員室に戻る。 ……職員室に目撃した教師がいて、自分に問い詰めて来る…という、最悪の想像で頭をいっぱいにしたが、そんなことはありえなかった。 職員室は静寂に満たされていて、針を刻む音がうるさい壁掛け時計の音以外に何もなかった…。
だって、自分以外の教師が全員、下校したことを確認してから毬枝を捨てに行ったのだから、それは当然のことなのだ。 ……………………。
「………ふふ、…………はははは? はっはっはっはっはっはっはっは!!」 笑う必要なんか何もなかったが、…面倒臭い片付けごとが全て終わったような爽快な気分になり、意識せず笑いがこみ上げるのを感じた。 でも、笑いにまで至ったのは、それだけではないようだった。
……そう。あのトイレでの咄嗟の機転。 度胸試しの女子生徒がノックしてきた時、……万事休すだと思った。 それを、……ちょっと小耳に挟んだ「めそめそさん」のふりをして、見事にやり過ごしたのだ。
あの女子は、明日から人に会う毎に自分は「めそめそさん」に会ったと喧伝するだろう。 ……そして、この学校には確かに「めそめそさん」という妖怪がいるという、学校伝説に育っていく。 ……それはつまり、……私が「めそめそさん」だったということだ。
そう。何の証拠も残さず、殺人を遂行し、それを隠し切った。 ……それは、ヒエラルキーのピラミッドで、自分が人間より上位に立ったことすら意味する。
つまり、……私は殺人という儀式を経て、今、人間というステージを超えたのだ…。 そして得たのが「めそめそさん」の呼び名。
そう、……自分は人間を超えた。「めそめそさん」になった。妖怪になった。人を超え、人を殺め、人に恐れられる存在になったのだ。 そして、私が残した「めそめそさん」の怪談は、例え私の身が滅んだとしても、この学校の生徒たちによって、いつまでもいつまでも語り継がれて生き残っていくことになる……。
……それはまるで、人間として生まれたからには絶対に逃れぬことができぬ宿命である寿命すらも超越したということ……。
「はは、…はははははは! 私が『めそめそさん』だぞ…! 生徒諸君、私を怖がれ、恐れろ、そして語り継げ! あはは、あはははははははは! こいつは素敵だな、あははははははは! 毬枝、お前は生きてた時には、俺の退屈を紛らすためにその身を捧げ、最後には命まで捧げて、私を人間から卒業させてくれたんだなぁ。あはははははははは! 本当に愉快なヤツだったよ…、あっはははははははは! はーっはっはっはっはっはっは!!」
………めそめそ……………めそめそ…………。 聞く者があれば、胸を掻き毟らずにはいられないような悲しい泣き声が、毬枝の死体の捨てられたトイレ小屋の裏から聞こえてくる……。 もちろん、それは聞く者のない悲しみの声。 ……いや、聞く者がいない時にしか許されない声だった。
毬枝の体は今や、永遠に光が差し込むこともない不浄の便槽の中。 ……だが、その魂は体を離れ、便槽の蓋の脇にしゃがみ込んでいた。 今の毬枝を悲しませているものは何なのか。…当の本人にも理解できなかったに違いない。 彼女を悲しませているもの。 希望を持って生を与えられたはずなのに、このような悲しい最期を与えられてしまったこと。 自分が誰にも知られることなく殺されてしまい、このような不浄の場所に死体を捨てられ、自分の死すら伝えられぬこと。 ……そして、望まぬ行為だったとはいえ、従ってきた数々の行為に対する担任の気持ちが、後悔でもなければ感謝でもなく、…ただただ嘲りだったこと。 それらがそれぞれに毬枝を苛み、…彼女に未来永劫、終わらぬ悲しみを与え続けるのだった……。
ふと、虫たちの声が泣き止み、誰かがやって来たことを教えてくれた。 それが、今の自分と同じ、人ならざる存在であることを、すでに人ならざる存在である感性で感じた毬枝は、顔を上げた。
……それは、彼岸花だった。 元々感情を感じさせない表情の彼女だったが、…今の彼女は本当の意味で感情のない表情を浮かべていた。 どんな感情も今の毬枝を傷つけたかもしれないことを考えると、彼岸花の冷たささえ感じさせるその無表情は、ある意味、毬枝にとって一番やさしいものだったかもしれない。 ……毬枝にはまだ理解できないだろうが、死者にとって一番やさしい、人ならざる存在らしい礼儀だったのかもしれない。
「……ご愁傷様ね。…泣くことで悲しみが癒されるなら、はばかることなく泣くといい。…決して誰の耳にも届かぬ泣き声であることを知りながらね。」
「…………やっぱり、…そうなんですね。………幽霊の声が聞こえたりしちゃ、…おかしいですよね……。」
……彼岸花の言葉は鋭利だったかもしれない。…でも、幽霊の理を知らぬ毬枝にとって、それは必要な言葉だったかもしれないし、…それはやはり、毬枝へのやさしさになったかもしれない。
泣き声とは、誰かに助けを求めるサインだ。…だから、誰かに受け取ってもらえるまで、人は泣き続ける。 その声が誰にも届かぬ幽霊であっても、それに気付かず、いつまでもいつまでも永遠に泣き続ける。 ……そしていつしか、泣くために泣く霊と成り果てて、ただただ生者に泣き声を聞かせたいだけのみすぼらしい霊と成り果てる…。
そんな存在に成り果てることの悲しさを知っているから。彼岸花は毬枝にとって、今は辛い言葉になることを知っていながら、“聞く耳を持っている内に”それを伝える…。
「………彼岸花さん。…私、これで『めそめそさん』になれるんですよね…?」
「彼岸花で結構よ、毬枝。」 彼岸花はそこで言葉を区切ると、しばし沈黙を守った。
その沈黙に、毬枝は何か嫌な予感を感じる。 ……『めそめそさん』にしてくれるなら、躊躇せず、そうだと言ってくれればいいのだ。…なのに、それを口にしないのだから。
「………私のことを嘘吐きだと罵る前に聞いて頂戴。毬枝を『めそめそさん』に推薦したのは本当。クラスのみんなも学級会でそれを承認してくれた。たったひとつの条件を付してね。……その条件はその時点では問題にならなかったからよかったのだけれど…。………今になって、その条件が引っかかり出したの。」
「……条件って、何ですか、彼岸花さん。」
「………『めそめそさん』になりたいと希望する者が1人だった時に限る、よ。」
「……え………?」 毬枝は、何を言われてるのかわからず、ぽかんと口を開けるしかなかった。 ……だが、言われていることが何であれ、それが今の自分にとって絶望的な内容であることに変わりはない…。その表情が、悲しみに彩られていく。
「『めそめそさん』という学校妖怪の席が認められた時、この席に付きたいと願ったのは毬枝1人だった。だから私はあなたのところへ訪れ、その意思はあるのかと確認を取った。そしてあなたにその意思があり、且つあなた以外にその意思を持つ者がいなかったため、その時点ではあなたが『めそめそさん』になるのは問題ないことだった。………ところが、最後の最後のこの瞬間に、…問題が起きたの。」
「も、…問題って何ですか……。」
「あなたの他にも、『めそめそさん』になりたいと希望する者が現れてしまったの。」
「……え……。」
「あなたはここで泣くことに精一杯だったから声が聞こえなかったのね。……あの男が、あれだけ大声で邪悪に笑うものだから、その声は私たちのクラスにまで届いてしまった。………それはとても皮肉な運命。あなたの悲しみをより深めるだろうけれども、真実だからあなたに話すわ。……あなたを殺した男、金森もね、『めそめそさん』になると宣言してしまったの。」
「……ど、………どうして……、先生が…!!」
「………あなたを殺した直後。そこへ訪れた生徒を追い払うため、金森は咄嗟に『めそめそさん』のふりをしたの。…それが綺麗にうまくいってね。彼はそれに大層機嫌を良くし、自分こそが『めそめそさん』であると、ついさっき、声高らかに宣言してしまったのよ。…あんなにも邪悪な声だったからあなたの耳にも届いたかと思ってたけど、あなたは泣くのに忙しかったから、耳に入らなかったのね……。」
…………毬枝はしばらくの間、呆然とするしかなかった。 あの男に、生ある時間を穢された。そして命まで奪われ、尊厳を嘲笑われた。 そして、……それだけでなく、死後の存在まで、あの男に奪われなければならないのか。 ……死しても、…あの男の支配から自分は抜け出すことができないのか…………。
「そ、………そんな、…………そんな………ううぅうぅうぅ…!」 毬枝はしばしの間、再び面を伏せて悲しみの涙を零し続けるしかなかった…。
「……まだ悲観することはないわ、毬枝。『めそめそさん』の候補が、あなたと金森の2人になっただけよ。…『めそめそさん』という学校妖怪に序列の第8位を与えることはすでに決まっている。だから今さら空席にはできない。あなたか金森のどちらかが必ずその席につけるわ。二分の一の確率で必ずね。」「………それはどうやって、…いつ決まるんですか……」
「学級会での投票でよ。……学級会に投票できるのは私たち7人。奇数だから必ず決まる。……私はあなたと縁があったからね、あなたに投票するつもりだけれど。でも、ウチのクラスには性質が悪いのも多いわ。金森みたいな、邪悪なヤツにこそ第8位は相応しいって思ってるクラスメートもいるみたい。なるほど、一理あるわね、くすくすくすくす……。」
「……そんな………………。…じゃあもし、……その投票に敗れたら、…私はどうなるんですか。」
「うふふふふふふふ……。学校ほど未熟な魂がたくさん集まるところはない。そんな魂からお零れを頂戴しようと、日本中で学校ほど魑魅魍魎が集まるところはない。まだあなたには知覚できないだろうけど、近隣でも最大のマンモス校であるこの学校は、この辺りじゃちょいと知られた妖怪銀座。」
「……あなたみたいな、矜持も克己もないくせにいやに瑞々しい魂にちょっかいを出さずにはいられない、性質の悪い連中が、あっという間に襲い掛かって骨の髄までしゃぶり尽くしてしまうでしょうね。……あなたには見えない? あの校舎の影や、向こうの茂み。……あなたの瑞々しい泣き声に引かれて、欲望をむき出しにした性質の悪い連中が群れを成してうかがってるわ。」
毬枝はぎょっとして、彼岸花の言う方を見るが、夜の闇に紛れる何かを見つけることはできなかった。 ……だが、見えなくても、その邪悪な存在は実在するに違いないのだ。
「今はまだ大丈夫。あなたの魂はまだ、この彼岸花が預かってる。……学校の敷地内で、その学校を預かる学校妖怪の七席に刃向かおうなんてお馬鹿さんはいないわ。ましてや私、…残酷なことで知られてるしね。くすくすくすくす……。」
彼岸花はお世辞にも頼もしそうとは呼べない不気味な表情でくすくすと笑う。 それは毬枝を大いに怯えさせたが、……毬枝には見えない、夜の帳に潜み毬枝を値踏みする邪悪な連中をそれ以上に怯えさせてもいた。
「あなたと金森のどちらが『めそめそさん』に相応しいか。それが決まるまで、あなたの安全は私が保証するわ。………その後は保証しないけれどね? 大丈夫よ。あの連中に食い尽くされるのも、あるいは死神がやって来て、冥府で正しい裁きが受けられるよう取り計らってくれるのも、どちらにせよ一瞬のことよ。……あなたがあなたでありたいと思う弱々しい気持ちなど、一瞬で奪ってくれるわ。どちらにせよね。」
「……………私がこうしていられるのは、彼岸花さんが守ってくれる今だけ、…ということなんですね。」
「そういうことよ。あとこれ、…言っていいのかわからないんだけど。」
「………なんですか…?」 彼岸花は、冷酷そうににやりと笑うと、毬枝の耳元に唇を寄せ、……耳たぶを舐め取るようにそれを言う。
「………あなたが美味しそうだと思ってるのは、
そこいらの連中だけじゃなくて、……私もだってことよ。あなたが『めそめそさん』じゃないってことになったら、…連中が食らい付く前に、………私が食べてしまおうと思ってるんだから。」
……その言葉にはわずかほどの冗談もない。 群れて互いの権利を尊重しあうのは人の世の理だ。 人ならざる者の世界では全ては序列。全ては弱肉強食。 ……そして、彼岸花がそれを望むなら、今この瞬間にもそれを実行してしまえるという現実が、言葉で伝えられているのだ……。
死を乗り越えればもう何も恐れることがないというのは、人間の無知だ。 死してなお、この世界にはさらに恐れるべき何かが満ちている…。 そして毬枝は、死というあまりに苛烈な壁を一度潜り、それをも上回る過酷な終末が存在している事実に、さらなる恐怖を感じずにはいられなかった……。 ……でも、…毬枝はその恐れを押し留め、やさしい声で言った。
「……もしそういうことになって、彼岸花さんがそれを望むなら、……そういうことでいいと思います。」
「…………………もう観念…?」
「……違います。お礼、みたいなものです。……だって今の私、彼岸花さんが守ってくれるから、ここにこうしていられるんですよね…? だから、今こうして自分の死のために涙を流せる時間を下さる彼岸花さんに、私は感謝しないといけないって、……そう思ったんです。」
「………………………………。」 毬枝にとって、彼岸花が自分に近付いてきた目的が、自分を食い殺そうというものであったとしても。 ……それでも、自分を仲間に迎えたいと掛けてくれた言葉の温かさは感謝に値するものだった。 あの金森が、いじめっ子から庇う対価として不道徳な行為を要求してきた時も、決して自分を友人とも仲間とも言ってはくれなかったから。 ……毬枝が口に出さなくても、その感情を彼岸花は読み取る。
「…………ふ。」 彼岸花は笑うが、その表情は毬枝からは見えない。
「……そんなだから、あなたは美味しそうな魂になっちゃうんだわ。……あなたにはもう少し、学校妖怪に相応しい残忍さや邪悪さが必要よ。」
「……大丈夫です。………こんな私でも、…仕返ししてやりたいって、…その程度の邪悪さは持ってますから。」
「……その仕返しも、『めそめそさん』になれなかったらできないんだから、大変ね? …復讐するのすら、あの男に邪魔されなくちゃならないんだからね…?」
「………………………ううぅうぅぅぅ…!!」 毬枝は再び涙する……。 死してなお逃れられぬあの男の影に、今は悲しさと悔しさと怒りと、……様々な感情をごちゃまぜにすることしかできなかった……。
その苦悩の泣き声も、夜の帳に飲み込まれ、決して誰にも届くことはない……。 毬枝や学校妖怪たちの思惑は、生者である金森にとって、まったく関わりのないことだった。 ……だが、だからといって、毬枝の死から金森が完全に縁が切れるわけもない。
森谷毬枝が自宅に帰らないという話はすぐに大騒ぎになった。 事故か、それとも事件に巻き込まれたのか。 普段からひとりぼっちで友達もいない毬枝の最後の目撃は当日の学校だけ。下校中に何かあったのではないかと憶測するのが精一杯らしかった。 警察が、当日の毬枝の服装を書いた、情報求むのチラシをあちこちの掲示板に貼り付けている。 それを目にせずには過ごせないほどに、町のあちこちに貼り付けていた。 警察も、担任である金森に話を聞きに来た。 下校した後のことは知らないと話すと、勝手に納得して去って行った。
職員会議でも緊急議題となり、愉快犯による第二の事件を警戒しようと、当面の間、集団下校や保護者による送り迎えをしようという話になった。 ……初め、それらの話題は金森の精神を少なからず追い詰めたが、一日二日と経つにつれ、それは逆に自信となっていった。 ……なぜなら、毬枝の死体は未だ見つからず、警察の捜査も下校中に的を絞られ、自分が捜査線から完全に零れていることを実感し始めたからだ。
クラスの子に、毬枝はどこに消えたのだろうと聞かれ、金森は冗談だと断りながらも言ってやった。
「うーん、……『めそめそさん』の祟り、かなぁ…。……あぁ、いやいや! 先生がこんなこと言ったなんて内緒だよ?」
……予想通り、この話は生徒に大層ウケた。 『めそめそさん』という、最近流行りの学校妖怪に犠牲者のオマケまでついたのだ。 校内では『めそめそさん』の噂が横行し、新しい学校怪談としてすでに定着し始めているようだった。
それを知り、金森はますますに自分が『めそめそさん』なのだという確信を強めていく……。 そんなある日のことだった。
放課後に、職員室へ向かった時、何もない平らな廊下なのに、……突然、転倒してしまった。 転んだ拍子に、肘を何かに引っ掛けてしまったらしい。皮が破れて血を滲ませていた。 大した傷ではないが、出血でワイシャツを汚すわけにはいかず、ポケットティッシュで肘を押さえた。「おや、金森先生、大丈夫ですか。お怪我でも……。」 その様子をたまたま見ていた教頭が声を掛けてくる。
「あぁ、これはお恥ずかしいところをお見せしました。転んだ拍子にどこかにぶつけてしまったようで。……多分、生徒が絞らない雑巾で拭いた水溜りか何かで足を滑らせてしまったのでしょう。」 とは言ったものの、そんなことで足を滑らせるはずがないと金森自身が一番理解していた。 こうして言い繕いながら廊下を見て、自分は何に足を躓いたのかと訝しがるしかなかった。「……先生、だいぶ出血がひどいようですね。ティッシュに滲み出してきていますよ。」
「……本当だ。困ったな、保健室へ行って止血をしてもらった方が良さそうですね。」
「そうなさるといい。あ、先生~。金森先生が転ばれて怪我をしたようです。見てあげてくれませんか。」 都合よく、廊下の向こうに保健室の先生の姿があった。
「あらあら、大丈夫ですか、その肘。」
怪我自体は大したことないのだが、血で着衣を汚したくない。
金森はそう思い、大人しく保健室に向かうことにした。
消毒薬の臭いに満ちた保健室で、こうして消毒薬の脱脂綿の痛みを感じていると、自分の小学生時代を思い出すようで懐かしい。 人より優れたものが何一つ見出せず、いつも周囲に見下されているように感じていたあの頃。 見下されたくない、見下し返してやりたいと、周囲に対する攻撃性を蓄積させていったあの頃。 ……私は毬枝を見下すことでようやくそのコンプレックスから解放されたように感じた。 殺人を肯定したいとは思わない。 ……でも、この禊によってコンプレックスから解放されなかったなら、自分は生涯、どれほど惨めな思いで生きていかなければならなかったのか。
それを思えば、どうせ生き続けたって、自分以外の誰かの慰みにされて生涯を終えただろう毬枝の存在を、自分が活かし、新しい境地に目覚めたのは当然のことと思えた。 食物連鎖の上下関係のよう。 自分は食う側だった。毬枝は食われる側だった。…それだけのことなのだ。
私が食わなければ、将来、別の誰かが食っていた。 なら、早い内に私が食ってやって、人生をリセットさせてやる方が慈悲深いというものだ。 もっとも、次の人生でも食われる側に違いないだろうが。……つくづく救えないヤツさ。
そんな妄想に浸っている間に少し大きめの絆創膏を貼ってもらい、治療を終えた。 礼を述べ、立ち上がった時。コツ、コツコツ、コツン…、という小さな連続する音を耳にした。
「どうしましたか?」
「……いえ、今、何か音が。何か落ちて転がるような。」 金森は床の上に小さな白いものが落ちているのを見つけ、拾い上げた。
「…………………?」 それはプラスチックか何かでできた、小さなボタンみたいなものだった。 ボタンと言っても、直径は数ミリもなく、何の部品なのか理解できなかった。
だが、その何かが落ちてきただろうと思う方向…、薬品棚の上を見た時、それが何なのかを理解した。
それは、この保健室にあるのは何とも不釣合いな、……西洋人形だった。 経年劣化により、くたびれた様子を隠せないが、決して安っぽいものではなかったに違いない。 さっき拾い上げた何かの形状とその人形を何度も見比べ、おそらく、この人形の洋服のボタンに違いないと察する。
「多分、この人形のボタンが飛んだのでしょう。」
「おやおや、そうですか。それはあとで縫い付けておかないといけませんね。何しろ、この子はこの保健室の主だそうですから。」
「ヌシ? この可愛いお人形がですか?」 金森は背伸びをして、薬品棚の上に座って保健室を見下ろしているその人形を抱き下ろした。 ……その人形には、西洋人形独特の、どことなく冷たい雰囲気があり、金森は社交辞令として可愛いと言ったが、内心は何て可愛げのない不気味な人形だろうと思った。
「えぇ、私も前任の先生から聞いたんですがね。このお人形、その先生が来られるずっと前からここにあって、こうして保健室を見守ってるんだそうなんですよ。」
「そんな馬鹿な。生徒の誰かの忘れ物じゃないんですか?」
「そんな立派なお人形を持ってきて、忘れちゃう生徒がいるとも思えませんがね。……そうそう、そのお人形は呪われた人形とか言って、生徒たちには怖がられてるんだそうですよ。」
「ははは、学校の七不思議のひとつですか? そう言えば、保健室の人形が夜中に踊りだす、みたいなことを生徒の誰かに聞いたような。そうか、この人形のことだったんですね。」
「昔、この保健室で死んだ女の子が持っていた人形が、魂が宿って妖怪になったんだとか何とか。ふふふ、そういう話ってどこの学校に行っても多いですよね。そうそう、その人形、誰が名付けたのか知りませんが、ちゃんと名前も持ってるんですよ。……彼岸花って名前だそうで。」
彼岸花。
「……ふぅむ。あまり縁起のいい名前ではないですね。なるほど、この不気味な人形にはぴったりかもしれない。……しかし、そんな人形をいつまでも飾っていると、生徒に怖がられていけないのでは?」
「それが、その人形を捨てようとすると祟りがあるって話なんですよ。ふふ、祟りを信じるわけじゃありませんけど、ずっとずっとこの保健室で生徒たちを見守ってきた主なら、蔑ろにしちゃ悪いと思いましてね。そこに座ってもらって、ここにやってくる生徒たちの怪我に、悪いのが入り込んで膿んだりしないように、見守ってもらってるんです。」
「……………そうですか。しかしこのボタン、どこの部分のものでしょうね。」
「あぁ、ここですね。あとで縫っておきましょう。ほら、右腕の袖のボタンですね。」 右腕の、袖の、ボタン……?
その何気ない単語が、金森の、忘れたくてもなかなか忘れられない、記憶のゴミ箱の中をちりちりと刺激する……。 そう。…あの毬枝の死体を捨てた夜の心残り。違和感。 毬枝の死体を捨てる直前、何かないかと死体を照らした時、……毬枝の右袖のボタンが千切れているのを確かに見たのだ。
あの夜はある種の興奮状態にあった。だから、ボタンひとつくらいどうってことないと無視した。……でも、だからといって拭いきれない違和感も残したのだ。 その、まるで靴下の中に小さな小石でも紛れ込んだような感覚が、ぶわっと脳裏に蘇る……。
……この人形から千切れたボタンが、右袖以外だったなら何も気にしなかった。 なのに、よりにもよって、右袖のボタン。 ……毬枝の服から千切れたのと同じ、右袖のボタン……!
その時、金森は彼岸花という名のつけられた不気味な西洋人形に嘲笑われたような気がした。
“馬鹿な男ね。この世に蒸発するものは2つしかない。
何かわかる?” え…? な、何の話だ……? 人形が自分に語り掛けるはずなどないという先入観が、その問いを霞ませる。
“蒸発するものは。……水と感謝の心、この2つだけよ。
くすくすくすくす……。”
……あぁ、なるほど、それはよくできてる皮肉だなと笑う。
…だが、すぐにその笑いが凍る言葉を人形は続けた。
“あなたが探してるのは毬枝の右袖のボタンなの? そのボタンは何でできている? 水? 感謝の心?” ……水や心でボタンができてるわけがない。 高級品なら貝だろうが、安ければせいぜいプラスチックに違いない……。
“そう。水でも心でもない材質でできてるのね。
なら、蒸発なんてするわけがない。溶けもしないし蒸発もしない。……なら、まだ落とした場所に残っていることになるわね。……落とした場所に、いつまでも。誰かに拾われるまで、…ずぅっとね? くすくすくすくすくすくすくすくす…………………。”
その言葉の意味するところがひりひりとした感触で伝わってくる……。 都合の悪いことを、人間はすぐに忘れたがる。……今日まで私は、あの毬枝のボタンの違和感を、……忘れていた。 ……だが、私がいかに忘れようとも、ボタン自体はなくならない。 それは必ず落ちた場所に今も残り続けていて、……そして、誰かが拾ってくれるのを今も待ち続けている…!
……そう。あの右袖のなくなったボタンのことを忘れてはいけなかったのだ。 最初からボタンが千切れていたわけはない。 ガサツな男子なら、ボタンが1つくらい千切れた服でもまったく気にしないだろう。
だが、女子だぞ! ボタンが取れたら必ず付ける。 ……毬枝も几帳面なタイプだった。右袖のボタンが千切れたまま、日々の生活をしていたわけがない。 だから、あのボタンは間違いなく、あの日に千切れたのだ…!
「……………………………………………………。」
「金森先生。どうかなさいまして?」
「……あ、いえ。ありがとうございました。ちょっと用事を思い出したところです。すみません、失礼します……。」
……もう私の心には、根拠なき安心感などなかった。 このままぼんやりとしていれば、いつかあのボタンを誰かが見つける。 毬枝が失踪した日の服について、警察はとっくに知っているから、万一、それが警察の手に渡れば、毬枝の服の一部だとわかるはずだ。 ……それほどまでに危機的状況を放置して、私は何をのうのうとしていたのか……。
なら、あのボタンはどこに落ちた…? ……………………………………。 ……絞め殺した、あの場所。…旧校舎のトイレの、個室の中。
いや、でも、あそこを出る時、痕跡が残っていないかどうか確かに見たはず…! でもそんなのは焦る心でちらりと見ただけのこと。落ちた一粒のボタンを見逃さないほどに慎重だったとは思えない…。
……確信する。 あそこだ。……あそこにあるのだ。 ……私は、誰にも見られずに旧校舎に入るため、完全にひと気がなくなる時間まで、逸る心を抑えて待つしかできなかった……。
保健室には、まだ保健の先生が残り今日の事務の片づけをしていた。 ……その時、少女の笑い声を聞いた気がした。
まだ校内に生徒が残っているのだろうかと思い、振り返ると、……薬品棚の上にちょこんと座った西洋人形の姿が目に入った。 もちろん「彼岸花」が笑うわけもない。お人形なのだから。 少し疲れているかもしれない…。今日は家に帰ったら早めに床に入ろう。そう思うのだった。
「……くすくすくすくすくす。どっちが『めそめそさん』に相応しいか、見物ね。投票まで待つなんて面倒臭い。……当事者同士で決めあうのが正しいとは思わない?」
「………やはり疲れてるのかな。今日はこれくらいにして帰るか……。」
彼岸花は、これから始まることを想像しながら、くすくすと笑う。 無論、その声は保健の先生の耳には届くわけもなかった。
「さぁ……。毬枝も金森も。どちらが相応しいか見せて頂戴。ウチのクラスのみんなも、投票より面白いかもしれないって期待してるんだから。くすくすくすくす…!」
「金森先生はまだ残られますか。
明日に響きますよ。」
「ありがとうございます、教頭先生。もう少しで区切りがつきますので、もう少しだけ残らせてください。」「わかりました。でも、ほどほどで引き上げてくださいよ。あまり残業時間が付き過ぎると、組合にも事務局にも文句を言われますので。」
「はははははは……。」「じゃあ、申し訳ございません。私もこれで今日は失礼させていただきます。金森先生が最後になると思いますので、セキュリティのセットをよろしくお願いします。あと、23時を超えるようでしたら、警備会社に連絡しないと確認に来てしまいます。くれぐれも注意してくださいよ。」
「えぇえぇ、心得ています。」 ……それは忘れてた。……あのトイレを調べるのにそんな時間を掛けるつもりはないが、そこに警備会社が来て鉢合わせじゃ、いろいろ都合が悪かったところだ……。
金森は、今夜はこれまで以上に慎重だった。…毬枝を殺した日よりも慎重なくらいに。 教頭の姿が校庭を横断していくのを見届けてから、教頭の忠告通り、警備会社に残業で遅くなる旨の連絡を入れる。 ……これで完璧だ。これで今度こそ、この深夜の学校には自分以外に誰もいないし、誰も訪れたりしない……。
……そして、職員室を出て旧校舎に向かう前に、自らの気配を殺し、校内に誰かが潜んでいないかをうかがった。 もちろん、耳に入ってくる音は何もない。 校舎に染み入ってくる夜の虫の声だけ。 ……自分が呼吸を許せば、それはまるで嵐のようにうるさく聞こえるくらいだった。
窓の外は真っ暗闇。 ……内側に明かりが灯っているから、廊下のガラスには外の暗闇でなく、廊下の景色が鏡のように反射して映し出されているだけだった。 だからすぐそこを見れば、……自分の姿が映っているのがわかる。 この広大な校舎の中に、自分がひとりきり。 昼間の学校は、たくさんの生徒と教師で賑わい、間違いなくひとつの社会を形成している。 しかもそれは、世間とは切り離された別の世界で、学校という別次元を構成しているとまで言えるだろう。 その次元の中に、……今、自分がひとりしかいない。
社会とは人が複数いた時に構成されるものだ。…それが複数でなく、単数になったなら、…それは社会ではない。 つまり、今この瞬間、この学校という次元は、社会というモラルから解放され、自分だけの世界になったのだ。 昼間の学校で廊下を走れば、生徒に走ってはいけないと囃され、教頭に見つかれば、生徒の模範にならないと叱られもするだろう。 廊下は走ってはいけないという、社会のルールがあるからだ。
だが、この深夜の学校は社会から解放されている。 つまり、社会の作ったルールが及ばない、……ここにいる自分だけの世界なのだ。
だから、こうして思い切り廊下を疾走しても、誰にもはばかられることはない。 今この瞬間こそ、自分はこの世界の王であり、社会の構成要素の1つである人間などというちっぽけな存在をはるかに超越しているのだ。
そう思えば思うほど、早く毬枝のボタンを見つけなければならないという焦りが消えていき、自分はさっきまで、何てちっぽけな悩みに焦燥感を感じてきたのかと呆れたくなってしまう。 自分に角があるなら。自分に翼があるなら。今こそ思い切り伸ばしてやろう、広げてやろう! 最初は心の中でだけ笑っていたが、今のこの世界ではそれを声に出して笑っても、誰にもはばかられないのだと思い出し、とうとう金森は、心の底から、そしてあまりに邪悪な声で、げらげらと笑いながら旧校舎へ向かうのだった……。
だが、その悪魔的な自信は、旧校舎に一歩踏み入った瞬間に引き、…そして、凍りつくぐらいに冷酷なまでの慎重さに摩り替わった。……それもまた、悪魔的なまでに。
旧校舎に明かりをつければ、ひょっとすると近隣の住民に見られてしまうこともあるかもしれない。だから電気をつけず、懐中電灯の細い明かりだけを灯した。
真っ暗な世界を照らし出す弱々しい明かりが、この廊下の長さが、まるで地平線まで続いているかのような錯覚をさせる。 そして、内側より旧校舎の扉を閉め、念には念を入れて施錠までした。
これでこの世界は完全に切り取られた。 学校という世界から、さらに切り取られて隔絶されたのだ。 つまり、人の世から、二つ分も遠くに切り離された世界ということ。
“……これだけ人の世から遠ざかったなら、…人ならざる世の方が近くになってしまうかもね…? くすくすくすくすくす……。”
あの、ボタンの飛んだ保健室の人形の声がまた聞こえた気がした。 もちろん、人形がしゃべるわけなどないのだから、そんな馬鹿なことはあるわけもない。 ……でも、今の旧校舎の世界は、人形などしゃべるわけがない人の世よりも、二つも遠のいている。
ひょっとして、…今のこの旧校舎の世界では、人形ガオシャベリヲ始メテモ、問題ガナイ世界ナノデハ……?
「……はは、…は…。…馬鹿馬鹿しい……。」 笑い飛ばしたくて、あえて口に出すが、さっきまでの安っぽい威勢が嘘のように退いていることを実感するだけだった。
少年時代に心に染み付けられた、夜の学校は不気味な世界という根も葉もない思い込みが、こんな時にじわじわと効いてきたというのか……。 もう一度、馬鹿馬鹿しいと口にしようとしたが、……もう一度口にすると、今度は、胸の中に芽生えつつある、恐れという感情を呼び起こしかねないと思い、それをぐっと飲み込んだ……。
……だから、ますますに旧校舎はシンと静まり返り、自分が否定したその感情をますますに増幅させるのだった……。
どこかの水道管から水漏れでもしているのだろうか。 ……昼間には気付かなかった不気味な音が、トイレを満たしていた。 トイレ内の明かりをつけたいという欲求に駆られたが、それを必死に抑え、
か細い懐中電灯の明かりで照らし出す。 ……もし、……あの毬枝を殺した個室の扉が閉まっていて、………そこから、めそめそという、毬枝の泣き声が聞こえてきたら……。 昼間の世界でだったら、失笑してしまうような安っぽい怪談も、……今のこの世界では、コインを放ったら、時には裏面が上になるというのと同じくらいの確率で、実際に起こりかねない恐ろしさを秘めている……。 だからこそ、…あの個室を照らすのに、躊躇があった……。
「………………………くそ、…何をびびってんだ…。怖いのは毬枝の亡霊じゃないさ、落ちているボタンを警察に見つけられることの方じゃないか。……くだらないさ。…ふふ……。」 意味もなくにやりと笑って自分を奮い立たせながら、……あの個室に懐中電灯の明かりを向けた。
……………………………。 ……当然だ。 個室は閉まっていたりなどしなかった。 だから無論、中に誰かがいたりなどしないし、めそめそと泣き声をさせていることなどない……。 ……本当に…? それを確かめるために息を潜めようかとも思ったが、…それをすることは、せっかく一度は抑えた感情を再び呼び起こすことになりかねない。 だから、それをやることを堪え、とにかく、個室の中を検めることにする……。 個室の中には、和式の便器がある。 それを見た瞬間に、…ぞわぞわと毛を逆立てながら、あの日の記憶が蘇っていくのを感じた。
……かつてこの個室は、毬枝に数々の非道な行為を強いる背徳の場所だった。
その行為はあれほどにも長い日々に及んだにも関わらず、……たった一度の出来事である、毬枝を殺したあの日の記憶に完全に塗りつぶされていた。 ……だから、蘇る毬枝の姿は、淫らなそれではなく、……私が絞殺した後、着衣の乱れも気にせずにだらしなく崩れ落ちた、あの姿なのだ。 その姿を連想した時、心の奥底に、ほんの少しだけ後悔の念も浮かんだ。だが、すぐにその考えを捨てる。 そのような考えに囚われること自体が、自らの弱さを認めるように思ったからだ。
日々の糧食に対し、
いちいち元になった動物や植物に後悔などしていたら、パンの一枚も食べられやしないだろう。 ……今の自分にとって、毬枝はその程度の存在なのさ。
ヒエラルキーによる断固とした階級の違いがあり、私はそのピラミッドにおいて毬枝より上位にいた。……ただそれだけのことなのだ。 だからこれは当然の結果であり、何も私が後悔する必要などないのだ。
パンを食べて悲しみの涙を零す人間がいないように。
「……くだらない妄想だ。……そんなことより、ボタンがないか探さないと。」 言葉にして自らに言い聞かせないと、ますます妄想に囚われるような気がした。
……すでに、旧校舎という異次元の空気は、私を蝕み始めているのかもしれない。 早く、この異常な世界から抜け出ないと、何か取り返しの付かないことになると、子供の頃以来、すっかり錆び付いていた第六感が警告する……。 急いで、……だけれども執拗に丁寧に調べなくては……。
私は、トイレだということも気にせずに、床に這いつくばって、舐めるように調べた。 尿がこびり付いて変色し、永遠に汚臭を放ち続ける床の上に、……毬枝のボタンが落ちているのを見つけることはできなかった。
……なら、ここにはないのかと普通なら思うかもしれない。 でも、なぜか確信していた。根拠などない。……間違いなく、ボタンはここにあるのだ。ここに! 絶対…!
床ではないのか…? 死角があるのか…? ……毬枝を絞殺した時点では、個室は閉ざされていた。今は床に這いつくばるため、個室を開いている。 扉の内側に何か。…あるいは扉の裏側に何か。 ボタンがそんなところにあるわけがないと思いつつも、……あの日と同じ個室内を再現しないことには、その妄想も振り払えなかった。
なので一度立ち上がり、個室に入って扉を閉めた。鍵を掛けないと自然に開いてしまうため、鍵も掛ける。 さっそく閉めた扉の裏側を見るが、もちろんボタンが張り付いていたなどということはない……。 ではボタンはどこに……。 毬枝はここで死んだ。ここで殺した。そしてここに崩れ落ちた。その時にボタンが千切れたのだ。 見たわけじゃないのになぜかわかる。そうに違いないのだ…!
「………………………………!」 ……その時、懐中電灯の明かりが、ぎらりと反射した。 トイレットペーパーの上に被さっている銀色の、ペーパーホルダーだった。
生徒の乱暴な使用により、それはややひしゃげていたが、トイレットペーパーを都合のいい大きさに切る程度の役割は、まだ十分に果たせるようだった。 ……その、…ペーパーホルダーの上に、………白い雫のようなものが一粒。
「あった…。………………これだ……。」 それをそっと人差し指と親指で摘み上げる…。 間違いなかった。……これだ。このボタンだ…。これこそ、毬枝の右腕の袖から千切れ落ちたボタンなのだ……。
あの日、毬枝は息の根を止められ、脱力した瞬間に、私の両腕に抗っていたその手を、ストンと下に落とした。 その拍子に、ペーパーホルダーに袖のボタンが引っ掛かるかして千切れて、……ボタンがここに乗っかったのだ。
……ふふ、……ははははははは。…見つけた……見つけた……。 大声で笑いたくなるのを懸命に堪える。 まずはこのボタンを永遠に処理する方が先だった。 難しく考える必要はない。こうして便器に落として、流してしまえばいいだけなのだ。 水を流すと、私を少なからず恐怖させてきた静寂の世界が、その轟音で引き裂かれる。 そしてあっという間にボタンを飲み込み、永遠に地上からその姿を消し去ってしまった……。
あの人形の言う通り、ボタンは蒸発しないから、この世に残り続けはするだろう。 だが、下水道管に入り込んだ小さなボタン一粒など、絶対に探し出せるものか! 砂漠のビーズを探すより困難に決まってる! だから事実上、これで永遠に葬ったも同然なのだ。 つまりこれで、私の殺人の痕跡は完全に抹消された…!
……あの日から心の中に居座り続けていた違和感が、じわりと解けるのを感じる。
そして、静寂を引き裂いていた排水の轟音が少しずつ静まっていくに従い、私はさっき一度は達していた、人間を超えた者の境地を再び取り戻していく。
もう、笑いを抑えるのだけでも苦しい。今すぐこの場で大声で笑い出したい気分だった。 いや、笑おうじゃないか。
ここは人の世から2つも隔絶された別の世だ。そして自分しかいない、自分だけの世界じゃないか…! だからもう遠慮はしなかった。 自らの笑い声で静寂を切り裂き、再び自分が人間を超えた存在であることを顕示してやった。 最高の気分だった。これまでの人生で、これほど痛快に笑ったことなど一度もないだろう。
そうして、存分に笑いを楽しんだ後、笑いすぎによる軽い酸欠と腹痛を楽しみ、私は個室を出ることにした。 そして、個室の鍵に手を掛ける。
その時、…鍵に触れた指が、静電気で弾かれるような感覚を受けた。 いや、正しい言い方ではない。 触れた指が静電気に弾かれたのではなく、……鍵に触れた時、私が静電気で弾かれたような感覚を受けた、というのが正しい…。なぜなら………、
扉の向こうから、めそめそという少女の泣き声が聞こえてきたから……。 全身の毛穴が逆立つような感覚が、ものすごい勢いで足元から上って頭の天辺まで突き抜けるのを感じた。 そして、息を殺し、……その“めそめそ”が、幻聴であることを確認しようとする。
でも本当なら、そんなことをして確認をする必要はない。 だって、この旧校舎に入るにはあの入り口しかない。そしてその入り口は入ってすぐに施錠した。 だから誰も入ってこれるはずがない。こんな時間まで生徒が残って隠れているはずもない。だからつまり、そこに誰かがいるなんてアッテハイケナイノダ…!!!
だからだからつまり、息を潜めて確認するなんて行為自体がすでに、そこにアッテハイケナイコトが起こっていることを認めること……。 でも、それをしなければならないくらいに、…今、めそめそははっきりと聞こえたんだッ?!
……心を落ち着けろ、………そして、耳を…………。 だが、………扉の向こうの、すすり泣く声の気配が、…消えない。…去らない……。 気のせいだ。幻聴だ。精神が高ぶり過ぎて、ありもしないものが聞こえているんだ…。そうさ、こいつは俺が人間だった頃の名残、良心の呵責ってヤツに違いない…。 俺はきっと、殺害現場に舞い戻り、毬枝を殺したことに後悔を感じて、こうして毬枝の亡霊を自らの内側に作り出してしまってるんだ。 つまり、そこに居て、俺を責めてほしいという、良心の甘え。つまり所詮は、
「………そこの人、……どうか哀れな私の話を聞いてください……。」 ……ッッ!!!!
もう、内なる声とか幻聴とか、そんな水準じゃなかった。…それは言葉となって耳に届いた。 そしてその声は、……毬枝以外の何者でもないのだ…。
「ま、………、ままま、………毬枝なのか、……毬枝なのかッ!!!」「………めそめそ……、……めそめそ、………ひっく……!」 相手は泣いてるだけだった。でも、しゃくりあげるような声が、自分の問い掛けに答えたものは明白だった…。 だが、毬枝をあの日、確かに殺して、死体を便槽に放り込んだ。だからここにいる毬枝が生きた存在のわけがない。
……この時の金森は、深夜の旧校舎という異常な世界にあり、……人ならざる世の理を無意識の内に理解していた。 だから、殺したはずだからいないという、人の世の理に囚われず、……素直に、扉の向こうにいる、死んだ毬枝という存在を理解できた。 理解できた……? それはつまり、死んだはずの毬枝の亡霊がそこにいるという、アッテハナラナイ事実の理解……。
扉の向こうの泣き声は、
……いや、…毬枝の亡霊は哀れに泣き続けながら、少しでも責めようと言葉を紡ぐ……。「…………あれだけ酷いことを強いて……、………………その最後が殺すことなんて、…あんまりに酷いです……。…………ううぅうぅぅぅ……。」
「こ、……殺すのは当然さ。……馬鹿かい君は…! あれだけのことをしちまったんだ! 警察に知られちゃまずいと思うのは当然だろ!! 君を生かして帰せば、その足で交番に駆け込んだはずさ。そうだろ?!」「……そんなこと、……しなかったです……。だって、……私がしゃべったら先生、…あの恥ずかしいビデオテープをばら撒くって……。」
「ビデオテープだってぇ?! はっはっはっは、わあっはっはっはっはっは!! あんなもんが脅迫になると、君は本気で思ってたのかい。ははははは、だからその程度の存在なのさ。…あははははははははは!」「……だって、…だって……。…私だって、…普通の生活に戻りたかったです…。だから、…その生活に戻らせてくれるなら、……先生のことを内緒にする約束、ちゃんと守るつもりだったんです……。」
「ははん!
口でなら何とでも言えるさ。君はそうは言いながら、あの日、下校したら警察へ行くつもりだった。そうだろう?! 警察に相談すれば何だってすぐ解決するさ。相談しても埒が明かないってのはテレビドラマの中だけだ! 泣いてる女の子の訴えを無視できる警官なんているもんか!」「………でも、……ビデオテープを先生が持ってる……。…約束を破ったら……、あのテープを先生が……。」
「はは、ははは!
亡霊になっても君ってヤツは…! 哀れだね、本当に哀れだよ! あんなテープ、君が警察に通報することと比べたら何の脅迫にもなるものか! 警察だって馬鹿じゃないさ、そのテープがばら撒かれる前に私を逮捕しようとするさ。
私はダビング機に触れることすらできずに逮捕されて、自宅は踏み込まれテープも機材も全て証拠品として押収さ!! あんなテープが脅迫のタネになるなんて死んだ後まで信じてる、君のおめでたさには、はははははははは!! 死後にまで笑わされるよ。そんな程度の浅はかさだから、その程度の末路なのさ。はははは、はははははははは!」
「……………そんな、……………そんな…………。」 毬枝のすすり泣きが、一層、悲しい色を帯びる…。
「この程度のことが脅迫になると信じてた君のおめでたさには心底呆れるよ。どこの漫画の見過ぎだか! 勝手に下らない知識を吸収して、独りよがりに世界観を構築していった浅はかさのツケさ!! 相談できる友達が1人でもいたなら、それが間抜けな勘違いだとすぐに気付けたろう。でも君は、下らないコンプレックスを理由に友達をまるで作ろうとしなかった。」
「…この世はな、社会なのさ! 社会とは人と人のつながりで出来ている。そのつながりを拒否して社会から零れた君は、まさに社会の落ち零れ。そんなだから、あんな下らないビデオテープが脅迫のタネになると本気で信じてしまうのさ!!」
「ははははは、まったく嘆かわしいね! 君の担任として、心の底よりそう思うよ! 三者面談の時、友達を作ろうと私が指導しても、君はいつだって言い訳ばかりだ! それを死を境に理解できたかと思っていたら! 死んでも勘違いしたままだったとはね!!」
「………わ、……私が、………ばかだったって言うんですか………。」
「あぁそうだね!!
私の口からはっきり言ってあげよう。
君は馬鹿さ!
大馬鹿だ!!
ガキのくせに人生を達観したようなフリをして、自分が社会の落伍者であることを美徳化し、
自身の悩みを打ち明け相談することにすら徒労を感じた落ち零れだッ!
人間社会のピラミッドの、底辺からすら零れたんだよ君は!」
「……そんな……。
……うううぅううぅぅぅ!!」
「君を酷い目に遭わせたのは、ははは、そうだね!
私の個人授業だったんだよ。
君ひとりでは解決できない問題に直面した時、どうすればいいかというね!」
「正解は、誰かに相談する、だったのさ!!
君にひとりでも相談できる友達、あるいは家族がいれば正解のチャンスはあった。
だが君はひとりも友達を作らなかった。
家族にも心を開かなかった!
私があれだけ指導したにも関わらずね!!
だから授業は時間切れになったというわけさ!」
「じ、……時間切れなんかじゃないです……!
……相談は、……しなかったけれど…、
……確かに、友達を作ろうともせず、…誰にも相談しようとしなかったのは私が悪かったかもしれないけど……、
…でも、私は、…………戦ったんです。
…先生と!」
「私が命じれば犬にも猫にもなった、人間の尊厳を捨てた君にしちゃ、まずまずの奮闘だったことは認めるよ。だが、そんなものは何の評価にもならないね! その結果がそれさ!! 君は相手に逆上されて、現にそうして首を絞めて殺されて、しかも肥溜めに死体を放り込まれた!! その無様な結果を以って、私にどう評価してもらいたいというんだい?」
「馬鹿言っちゃいけないね!! 0点だよ0点ッ!! そういう下らない勇気を蛮勇というのさ! そんな勇気より、君は警察に相談する勇気を持つべきだった。それを、それでも選べず!! その結果が今の姿というなら、それのどこを褒めろと言うんだい?」
「ははははは!! 馬鹿は死ななきゃ治らないって言うが、どうやらそれは間違いらしい! 死んでも治らないがどうも正しいみたいだ!! わっはっはっはっはっはッ!!!」
「……ううううぅううぅうぅぅぅッ!!!」 毬枝の魂を死した後にも辱める…。 亡霊は生者より強いなんて誰が決めた? ……そんなルールなんてない。死んだ時点で、生者から落ち零れた時点で、劣った存在なのだ。 毬枝がわずかに持っていた希望、……人間を辞めれば、復讐する力が得られるという幻想が、死した後になって、打ち砕かれていく……。
だから毬枝は今こそ理解した。 「めそめそさん」に自分がなれるかどうかなんて、まったく関係ない。……復讐する力、…いや、戦う力とは、そもそも自分が何を悟り何をするかという力にあることを。 人間以上の存在になれば、人間である担任に復讐できるに違いないという甘えがある限り、そんな甘えた存在に戦う力など宿るわけがないのだ。
その力を持つ者は、人間の内に戦える。…否、戦うとは生きること。それを放棄した時点で、生きることを放棄した時点で、永遠に負け犬なのだ。
だから、すでに死んでしまった毬枝は、戦うという本当の力の意味、……本当の意味での勇気を理解したにも関わらず、………もう、戦いの土俵に上がる資格すらないのだ。 戦うための資格。それが、生きることだった。
命を奪ったのは担任だったかもしれない。 でも、彼岸花に妖怪にしてもらえると聞き、妖怪になれれば復讐できると浮かれ、ならばと持った実に下らない蛮勇だった。 せめてそこでその勇気を、誰かに相談しようという方向に向けていたら、……きっと自分は生きていた。 生きて戦って、あるいは勝って、この運命の出口にいたかもしれない。 それを放棄した! だから自分の運命は永遠にこの男の中に帰結して、どこにも逃れられず、こうして死後も永遠に辱めを受け続けなければならないのだ……。
「……うううぅぅ…! うううぅううぅぅ…!!」 毬枝の声は、もはやすすり泣きではなく、号泣と呼んでもいいものに違いなかった。 ……それは、祟ってやろうという攻撃的な姿ではない。 永遠に辱められることを宿命付けられ、それに抗えもせず泣いて従うしかない、卑しい姿。 毬枝は、これほどまでに自分を悲しい存在だと思ったことはなく、…後悔したこともなかった。
あの日に戻れたなら、犯さなかった間違いがいくつも頭を過ぎる。 被害者気取りで、戦う意思や勇気を失い、奮い立とうともしなかった。 その癖、生きることへの興味を失っておきながら、他力本願な力を得て復讐したいと白昼夢だけを見ていた。 そんな自分に、生きている資格があるとでも…? 死んで当然だった。生きてる価値なんてなかった。だから殺されて当然だった。つまりこれは必然だった。
「……ううううぅうぅうぅ!! ううううううぅぅうぅ!!!」
「ようやく自分がどれほど醜い存在か理解できたようだね。……君のために補習授業ができて良かったよ。そして、ようやく君にも授業の効果が出たようだ。君の後悔の泣き声でそれがわかるよ。だから、これで授業を終わりにしようじゃないか。」 金森は個室と外を隔てる扉の鍵に手を掛ける……。 指が鍵に触れた時、がちゃりと音がして、それが毬枝を大層怯えさせた。「……な、…………何をするんですか………。」
「授業を終わりにするのさ。君は生きる上での大切なことを今、学べたじゃないか。だったらそれを活かすために、君は次の人生のスタート地点に進むべきなんだ。……わかるね?」「………え……? ………ぇ? ………それって……?!」 鍵をガチャンと開ける音がして、その音に対し、毬枝のひ! という短い悲鳴が聞こえた。
……もう鍵はない。金森が扉を開けば、そこにいる毬枝が目の前に晒される。 毬枝にとっては、自分を殺した恐ろしい相手が、再び目の前に現れることになる。 今の毬枝にとって金森の存在は、扉越しでも恐ろしい。それを直視する勇気など、未だになかった。
だが、金森には亡霊となった毬枝を直視する勇気がすでにあった。 なぜなら、亡霊は怖いものという、人の世の理がとっくに拭い去られていたから。 金森は理解した。……亡霊などという存在は、命を失う前と後という区分の、後を指すだけのものだと。 みすぼらしい存在は、亡霊となってもみすぼらしいのだ。毬枝は死んでも毬枝なのだ。生きていようと死んでいようと、何の区別もないことを理解したのだ。 毬枝はそれを理解するのがあまりにも遅かった。……だから、亡霊などという存在に落ちぶれて、今ここにいる。
「さぁ、未だに成仏できない、君のみっともない姿を私に見せるんだ。」「……い、……………………いや、…開けないで……。」
「駄目だね。」「ひぃッ!!!」 まるでギロチンの刃を落とす処刑人のような残酷さで、金森は扉を開け放つ。
……それはとても異様な光景だった。 なぜなら、トイレの個室の扉を内から開けたのに、……そこもまた、トイレの中だったからだ。
だが、毬枝の姿は確かにそこにあった。 殺した日と同じ姿で。 右袖のボタンを失った姿で。 首には絞め殺された時の痣を残して。
「………ひ……………ひぃ……ッ!!」 毬枝が、怯えた声を出して後退るが、そこもまた狭い個室なのだ。逃げるべき場所はなく、すぐに壁を背負ってしまう。 そして、がたがたと震え、金森のおぞましきその姿が、せめてそれ以上近付いて来ないよう、祈るような目つきをした。
「本当に君はどうしようもない落ち零れだね。君くらい出来の悪い生徒は持った試しがない。次の人生では、私に習ったことをちゃんと活かして、有意義な人生を送れるよう祈ってるよ。」
「……な、…何をする気なんですか、………先生……。」
「そんな姿で私の前に現れるということは、どうやら自分が殺されたことがしっかり理解できてないかららしい。……君の新しい人生がやり直せるよう、先生がもう一度、君を絞め殺してあげようって言うんだ。」
「……い、………いやぁッ!!!」 その怯え様は、生きていた時の毬枝より過剰なものだった。
死の壁を通り抜ける時の苦痛は、死んだ者にしか理解できない。 それを、もう一度与えられることを知った恐怖は、その異様なまでに怯えた形相から想像するほかない。
「……いやです、……もう嫌です……、殺されるのは、もう嫌です……!!」
「嫌ならどうする? 相談するのが正しいが、ここには相談できる人はいない。君の身ひとつだけさ。なら、どうする?」
「ぅう、ぅ、…ぅわあああぁああああああああぁああッ!!!」
毬枝は泣き叫びながら金森に掴みかかる。そのか細い両腕が金森の首に掴みかかるのと同時に、金森の両腕も毬枝の首に掴みかかる。「そうだ、今は戦うのが正しい。今この瞬間だけを見れば正解さ。だが、非力な君が、私と一騎打ちしたって勝ち目がないことは、すでに立証済みだったんじゃないかい? 君は死んでも、やっぱり落ち零れなのさッ!!」
互いに相手の首を絞め合うといっても、力の差は歴然としている。 万力のような力で締め付ける金森に対し、毬枝の力はすぐに抜けていく……。 いつしかその両腕は、金森の首を絞めるためではなく、金森の腕に力なく抵抗するものに変っていった。
「君ひとりでは打ち勝てない難題なんてこの世にはいくらだってあるッ!! それを乗り越えるために人は社会の力を借りるんだ。それを怠った君の末路は、例え二度繰り返そうとここに帰ってくるんだ。……これで成仏できないなら、また何度でも私のもとを訪れるといい!! 何度でも何度でも、殺された時の苦しみを思い出させてやるッ!! 何度でも何度でも、お前を絞め殺してやるッ!!!」
「……ぅうううっぅぅ、く……ぅ……!!」 毬枝の脳裏に蘇る、生と死の境を潜る時の恐怖と痛み…!! そして、死した身でありながら、首を握り潰される激痛と、窒息する苦しさに呻く。
「さぁ、間違いなくもう一度死ねッ!!! 森谷毬枝ぇええッ!!!」
「……………………………ッッッ!!」
ゴキリ……。 以前に絞め殺した時にも至れなかった手応えが伝わる……。 その瞬間、毬枝の体がガクンと大きく震え、……首は斜めに傾ぐと身動きしなくなった……。
「あはは、はっはっはっはっはっはっはっはっはッ!!!」 金森はそれでもなお絞め続ける手を緩めず、悪魔のように笑った。
その時、この場にいるはずのない声が響き渡った。「ゲームセットね。これでどちらが『めそめそさん』に相応しいか、はっきり決着したわ。」
声のした方を見上げると、トイレの個室と個室を区切る敷居の上に、あの保健室で見た西洋人形が座っていて見下ろしていた。 人ならざる存在を理解できる今の金森にとって、その存在は不気味なものでもなんでもなく、毬枝と自分の決闘の正式な見届け人に違いないと思った。 だから、ニヤリと笑って言ってやった。
「えぇ、そうですね。これでゲームセットです。森谷さん程度の器では『めそめそさん』なんていう、学校に永遠に語り継がれる妖怪のポストなど身の程知らずもいいとこです。」
「そうね。学校妖怪の末席を許すにはまだまだ役不足ね。あなたの方が、むしろ邪悪でその任に相応しいと思ってよ。あなたほどの人なら、きっと学校妖怪に混じっても、見事にその席を守りきれるでしょうね。あなたのような人が末席に加わったなら、私もうかうかしていられないわ。」
「はははははははは! なるほど、これは君たち学校妖怪の、どちらが『めそめそさん』に相応しいかのテストだったというわけかい。粋なマネをするね!」
「そうよ。投票はしたけど、3人が毬枝に、3人があなたに票を投じた。私は棄権して別の提案をしたの。当事者同士にその座を賭けて争わせたらいいってね。」
「なるほどね。保健室で君のボタンが飛んだのは、そのテストへの誘いだったというわけだ! ははははは、なるほどね、はっはははははははは!! だが、こうして結果は出たね! どちらが『めそめそさん』に相応しいか!!」
「えぇ、結果は出たわね。とても残念よ。」
アナタミタイナ邪悪ナ人ヲ、ウチノクラスニオ迎エデキナクテ。
「………え? ……ぉ、……ぉぐ…ッ、」
その時、金森は自分の両手首がものすごい力で捻り上げられるのを感じた。 驚き、目線を前に戻すと、……すでに白目を剥いて涎さえ零している毬枝が、…金森の両手首を、ものすごい力で捻り上げているところだった。
その鈍い音は金森の手首の外れる音なのか、手の甲の骨を砕く音なのか。
「ぐ、……ぐううぅう、……ぐ、……ごごごご、は、…離せ………、」
くすくすと笑う彼岸花は告げた。
「残念よ。
あなたくらい邪悪な人にはそうそう会えないから、
ウチのクラスにお迎えできなくて本当に残念。
……私があなたたちに試したかったのは、
どちらがより邪悪か、どちらがより妖怪に相応しいか、じゃなくて、
…どちらが『めそめそさん』に相応しいか、よ。」
「………金森。あなた、『めそめそさん』になりたいって言ったのに、『めそめそさん』のルール、…忘れちゃった…?」「め、……めそめ、……ルール……?
ぎゃッ!!!」 今や、金森の両手首の骨を粉々に砕いた毬枝の両腕が、全身を抱擁するように抱きしめる。 だがその抱擁は愛のなせるものではない。 全身の骨を粉々に砕いてしまおうという、悪意ある死の抱擁。
「は、…離、………き、………げ…ぇ………、」 金森のあばら骨がキシキシと泣いて悲鳴をあげる。その音を小気味よさそうに聞きながら、彼岸花は続ける。
「そうよ、『めそめそさん』のルール。『めそめそさん』に出会ってしまったら、話し掛けてはならない。正体を見ようとしてはいけない。………あなた、そのルールを全部破っちゃったわ。だから毬枝の勝ちよ。」
「そ、…………き、………ぎぇ…………、」 とうとう、金森の体から小骨が折れる音がひとつふたつと漏れ始める。
「うふふふふ。毬枝、やっちゃえ。」 彼岸花がくすくすと笑いながら、最後の止めを毬枝にせびる。
だが、毬枝はそこで一度だけ腕の力を抜いた。 その表情は、白目を剥いた恐ろしいものではなく、……毬枝本来の表情だった。
「………ありがとう、先生。…先生の言葉はとても汚くて辛いものだったけど、……でも先生の言う通りだったと思います。…私は、先生に教えられなかったら、死んでも自分の罪が理解できなかったかもしれない。……それを、こうして死んだ後であっても教えてくれたことに感謝します……。」「……ま、毬……ぇ……、」
「ありがとう、先生。………いじめっ子たちから庇ってくれてた一番最初、………好きでした。」
「ゆ、………許ひて…………、……はがッ、」
そして、異音…。 身近な音に例えるなら、新聞紙を乱暴にゴミ箱に突っ込む時のようなぐしゃぐしゃという音。 でも、その音は紙のように軽くなく、聞くだけで気分が悪くなりそうなおぞましい音……。 それは金森の、全身の骨が粉々に砕かれていく音だった……。
もう苦痛の声も漏れない。口からは幾筋もの血を溢れさせている。 そこから聞こえるごぼごぼという音は、もはや言葉すら許されない金森の断末魔なのか、内臓の奥底から全てを搾り出されてくる臓器の喘ぎなのか、もう区別がつかない。 そして、…人の体で一番太い骨が、ごきりと折れる音が聞こえた……。 聞いていたのは夜の虫の声と、学校妖怪が2人だけ、だった……。
「おめでとう、『めそめそさん』の毬枝。あなたが選ばれたわ。みんなの拍手が聞こえる?」
「………………いいえ。」
「くすくすくす。みんなも姿を現せばいいものを。勿体ぶってるわね。恥ずかしがり屋さんばかりなんだから。……もっとも、もう少し力をつけないと、あなたに知覚するのは難しいかもしれないけどね。」
「……学校妖怪のみんなと、私は仲良くできるでしょうか。」
「さぁ、難しいんじゃない? 人間の友達すら作れなかったあなたに、人間じゃない存在の友達を作れるかしら?」
「がんばります。……やり直せぬ人生なら、この新しい人生で過ちを、せめて取り返したいので。」 その表情は、毬枝が今日までに見せてきた表情の中で、一番、決意に溢れたものだった。
「………ふぅん。死して堕落する子は多いけど、死して決意する子なんて珍しいわね。やっぱり毬枝は面白い子、……いいえ、変な子よね。くすくすくす……。」 彼岸花が敷居の上から飛び降りると、図書室で出会った時のような人の姿になる。
「そろそろみんなもあなたの自己紹介がほしいところのはず。それに、あなたの新しいクラスになる私たちの教室にも案内しないとね。」
「……クラスって、……B組ですか…?」 彼岸花の胸にある名札には、学年の欄は空欄で、クラス名にBと書かれていたからだ。 かつて、雨に滲んだようで読めなかった名札は、なぜか今はくっきりと読めるようになっていた。
「B組? 違うわ。13組よ。字が汚くてごめんなさいね。」
「13組……。」 そんなクラスはこの学校のどの学年にも存在しない。 でも、そのクラスの教室は、確かにこの学校に存在している……。
「おいで、『めそめそさん』の毬枝。『踊る人形』彼岸花の手を取って。」 彼岸花がそっと手を出す。 毬枝は少しだけ躊躇した後、それを握った。 怖かったからじゃない。
「学校妖怪の役目は大変よ? 夜の闇をもっとに暗く染め、不吉と邪悪で覆わなくてはならない。」「…………は、…はい。」「夜の闇が暗かったならば、…その分だけ、昼間の学校は明るく照らされる。邪悪な教師がひとり、夜の闇に飲み込まれれば、その分、昼間の学校はマシになるでしょうしね。」「……あは、ははは。」
「でも、おめでとう。これが初の白星ね。せっかくだから、しっかり数えておいた方がいいんじゃない?」
「数えるって、何をですか…?」
「くすくす。……祟り殺した人数よ。これが毬枝の1人目ね。」
「い、…いやです、そんなの数えるの。」
「くすくすくすくす。まぁ、そこが毬枝の面白いところかしらね。そんな気弱そうな振る舞いだと、ウチのクラスでもいじめられちゃうかもしれないわよ?」
「い、…いじめられたら、…友達に相談します。」
「友達って誰?」
「ひ、…彼岸花さんは、友達になっては……その、…くれないんですか……。」
「この『踊る彼岸花』に友達になれ…? ………くすくす、うふふふ、ははははははははははは。もう少し友達は選んだ方がいいと思うけれども。」 彼岸花はしばらくの間、こんなに滑稽なことはないとでもいう風に、お腹を捩って笑う。 それもやがて収まり、肩を竦める。
「……毬枝がそれでいいなら、それでいいわ。
…本当の私を知っている人なら、そんな命知らずな申し出は絶対にしないしね。無知のなせる業かしら、くすくすくすくす……。」
「彼岸花さんは、冷たそうだけど、その、いい人だと思いますので……。」
「……本気で?」「はい。」
「…………ふぅん。」
「……ご迷惑ですか……。」
「…………。」
「…………。」
「……ありがと。」
「え?」
彼岸花が毬枝の手を離し、廊下の先へひとり歩いていく。「こっちよ。わかる? 廊下が伸びているのが。…人間のクセが抜けないと、知覚できないわよ。見えてる?」
「は、はい! 見えてます!」
あるはずのない廊下が、闇の向こうにずっと伸びている。 人間だった頃、そこは壁だったはずの場所が、今やさらに遠くまで廊下を延ばしている。「さ、おいで。」 彼岸花の後を追い、毬枝もその闇の中へ入っていく………。
……その日を境に、金森の姿を見た者はいない。
もちろん、森谷毬枝の姿も。
でも、保健室の主と呼ばれ、彼岸花と呼ばれる西洋人形の姿は、今も薬品棚の上にある。
旧校舎の奥にあるトイレには、妖怪が住んでいるという噂があり、夜な夜な、その祟りに触れ絞め殺される、哀れな教師の悲鳴が漏れ聞こえるという話である……。
これは、近隣の学校の統廃合に伴い、大きなマンモス校になって大勢の生徒数を誇り、のみならず、学校の七不思議が、さらにもう一つ多いという不思議な学校の物語……。
The text under this cut describes acts of rape, torture, and death. Even if it is in japanese, I still feel the need to warn for mature material. Please use discretion while reading this material, thank you.
Anyways yep, here it is, first part of the project I'm doing. Let me just copy paste some stuff from tumblr as a preface o/
I’m going to be dumping some text onto dreamwidth when I’m all done. I’m thinking about doing it in three parts. First, the japanese text ripped from the game. Second, the japanese text, line for line, with the rough atlas translations under it. The third would be me proofreading atlas’ rough translations to make a clear understanding of the events that take place.
However, this should not take the place of a patch, because I do not know Japanese and I do not pretend to know. I have two goals in doing this.
1] To satisfy the curiosity of 07’s fanbase until a patch is done by someone who knows Japanese.
2] To aid anyone wanting to do a patch.
If anyone wants these uploaded as text files just let me know and I'll do so. Telling me what format you'd prefer it to be saved in would be nice too.
You can also contact me at goldlaced[at]gmail[dot]com
男がトイレの個室を出ると、そこには少女が一人残されているだけだった。
少女の姿は、…一言で言えば異常だった。
上履きに靴下。
それは、ここが学校であることを考えれば何もおかしいことはない。 背負っているのは赤いランドセル。 それは、ここが学校であることを考えれば何もおかしいことはない。 そして着ているのは、上下の下着。 下着を着けていることは別におかしいことでも何でもない。 ……だが、下着姿でトイレの個室にいたことは異常だったし、その姿でランドセルを背負っているのは異常だった。そして男と女子トイレの個室に二人でいたことも異常だったし、……ここでどのようないかがわしいことが行われていたのか、想像し得たとしても、それは全て異常という言葉以外の何で示されるものでもなかった。
少女は、男の足音が遠のき、自分が無人の旧校舎の忘れられたトイレに一人っきりになったことを思い出すと、そのまま床にへたり込み、めそめそと哀れな涙を零し始めるのだった……。
学校には大勢の生徒がいて、女子だってその半分を占める。 ……だから、この“少女”のことをいつまでも少女と呼称するのは適当ではないだろう。 だから、彼女の名誉やプライバシーを、私たちの好奇心だけで引き裂くならば、その名はあっさりとここに明かすことができる。
少女の名は、森谷毬枝(もりや まりえ)。 *年8組の生徒で、飼育委員を務める心やさしい少女だった。 成績は平均。得意教科はなく、苦手教科は体育。…その意味では平均よりやや劣る成績と言えたかも知れない。 毬枝の履歴を見ると、班長や委員など、クラスの役職に就くことが多いことがわかる。 でもそれは、彼女に使命感があったからではなく、悪意ある押しつけに対し、彼女が断るだけの強さがないことを示していた。
彼女も、そんな弱い自分と決別したいと日々思っていた。 ……だが、思うだけで自分を変えられたなら誰も苦労などしない。 だから毬枝は、自分すら愛せぬまま、今日という袋小路を迎えていたのだった……。
毬枝が望まぬことをいつから強要されているのか。 そしてどのような破廉恥な行為を強要されているのか。 ……それについて詳細に説明する必要は何もない。 望まずして、少女は穢し続けられている。それだけが、現在の彼女の置かれている状況を簡素に説明できる言葉なのだから。
どうしてこのような悲しい運命に迷い込んでしまったのか。最初の切っ掛けは本当にささやかで下らないものだった気がする。 ああするしかなかった。他に方法がなかった。断る術がなかった。それが常に、最善だった。 にも関わらず、状況は一向に改善しなかった。 ひとつの弱みを補うために求められる代償は、次なる弱みを誘い、代償のために代償を支払い、さらに代償を求められる。 ……蟻地獄にも似た、終わりなき悪意の螺旋だった。 すでに毬枝は多くの弱みを男に握られ、口にするのもおぞましいような数々の辱めを断ることもできなくなっている。
毬枝には、このようなことを相談できる友人はいなかった。 家族はいたが、そのようなことを打ち明けられるような信頼関係を結べていなかった。
森谷家には子供は3人いたが、毬枝以外の姉たちはとても優秀だった。 自分だけがいつも底辺で、ただ生きているだけでも、日々、姉たちの優秀さと自分の無能さを突きつけられた。 次第に毬枝は卑屈になり、学校でも家庭でもひとりになろうとするようになった。 悩み事を相談すれば、姉たちの偉業と比べられ、また居心地が悪くなるに違いないと恐れた。 ……だから、このような蟻地獄に落とされた時、家族も含め、相談する相手が誰一人思いつかなかったのだ…。
彼女なりに考えた最善は、常に裏目裏目に出続けた。 押しつけられた飼育委員すら断れなかった彼女に、どうして悪意ある罠が振り払えるというのか。 ……だからこれはつまり、…彼女にはとてもとても気の毒なのだが…、当然の結果だった。
毬枝はのろのろと衣服を身につけると、再びランドセルを背負う。 ……その背負う重みに、先ほどまで強要されていた数々の辱めが思い出された。 だから毬枝は、いつの頃からかランドセルを背負うだけでも、あの男の支配を受けているように感じるのだった…。
……どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。 宙を泳ぐ金魚がいたならば、水面で口をぱくぱくさせなければならないに違いないと思うほど、酸素の薄れた空気の中で、私はぼんやりと考えていた……。
一番最初、悪かったのは確かに自分だった。 私はしてはいけないことをしてしまい、それを先生に見つかって咎められた。 それはとてもとてもいけないことで、もしクラスメートに知られたら、きっとまた虐められてしまうに違いないような、…そんなことだった。 だから、それを内緒にしてもいいと先生が言ってくれたとき、……私は少なからず先生に感謝の念を感じたのだ。
……その代償として求めてきた行為が、どんなに異常なものだったとしても。
私は長いこと、ずっと虐められてきた。 幸いにして今は虐められていないが、それは、クラスに私よりも虐められている子がいてくれるからというだけのこと。
だから、私は再び虐められる生け贄羊に戻らないためには、どんな代償だって安く思えたのだ。 ……それくらいに、生け贄羊の役は、辛いのだから……。 だからこそ、初めの内は、どんなことを求められても耐えられた。
クラス中から虐められる恐ろしさや悲しさに比べたら、先生の言うことを聞くのはまるで難しいことじゃない。 先生は、放課後に私を呼び出す時以外は私を虐めないし、むしろ私を虐めようとするクラスメートを叱ってさえくれた。
そう。先生は私にささやかな辱めを強要したとしても、私を守ってくれていたのだ。 だから私は、身を守ってくれる恩返しに、先生の望むことをしてあげるのは当然の奉仕だと思って耐えてきたのだ。 先生の求める行為に罪悪感を覚えるのは私の問題で、先生自身はそれらの行為にいつもとても満足し褒めてさえくれた。 ……だから、私は良いことをしているのだと思い込もうとがんばってきた。 ………でも、先生の欲求は止まることを知らない。 先生が私を守ってくれることに対する感謝の気持ちとして捧げていたはずの行為は、今では先生のために私が施さなければならない義務と化し、かつてはたまの放課後だけに呼び出されていたはずの関係も、徐々に他の時間にも浸食するようになり始めていた。
授業中に仮病を使って抜けるように命令されたり。休日にも学校に来るように命令されたり。 今では学校生活は副次的なものとなり、私は平日も休日も、先生が望んだ時、望んだことを捧げなければならない身となり果てている。 平穏な学校生活を守るために耐えてきた苦役は、今や私の平穏を侵し始め、何のために捧げている行為なのか、その意味すら分からなくなり始めていたのだ……。
……でも、先生は確かに私をいじめっ子たちから守ってくれる。 今日だって、私の教科書をいたずらしようとした男子たちを全員廊下に並べて、真っ赤になるくらいに平手を打ってくれた。そして私に謝罪させてくれた。
だから、…先生が悪い人だとは思えない。 むしろ先生は、いじめられっ子の私を守ってくれるいい先生なのだ。 ……だから私が先生の望みを聞くのは、それに対する当然の感謝なわけで……。 それに対し、不快に感じるのはつまり、私が感謝の気持ちを忘れかけているということで……。
……私は、先生が良い人なのか悪い人なのか、…それすらもわからなくなり、……ただただ今日もいいなりになり、下着姿にランドセルを背負うよう命じられ、……先生の日頃の疲れを労うよう命じられただけだった……。 それが辛く感じるのは、私に感謝の気持ちがないからなのだ。 先生が守ってくれなかったら、私はきっと今頃クラス中に虐められている。 …それに比べたら、…こんなの全然、……平気……。 そうわかっているはずなのに、……私はめそめそと泣き続けるのをやめることはできなかった……。
被害者の名だけが明かされ、犯人の名が明かされない理不尽は新聞だけで充分だ。 だからここでは、森谷毬枝に理不尽な運命を強いる男についてもその名を明かすべきだと思う。
すでに少女の独白でも明かされている通り、男は毬枝の担任だった。 名は、金森義仁(かなもりよしひと)。 若くて線が細く、落ち着いた振る舞いの中にもユーモアを忘れない、憧れる女子も多い人気のある教師だった。
だが、それは容姿だけの問題だ。 その内面は、彼に憧れる少女たちのささやかな好意を踏みにじってなお余りある、最低のものだった。
かつて聖職を志した頃、彼は高潔な人間だったかもしれない。
だが、多忙な現実は彼の現実感なき理想などすぐに霧散させる。 ……やがて彼は、多忙かつ報われない日々に対し、理不尽な怒りを抱くようになっていった。
これだけ自分は滅私奉公をしているのに、それを誰も自分に感謝しない。 自分の零す汗だけが無駄に滴り落ちるだけ。 ……なのに、世の中にはそんな自分の苦労の上にさも当り前のようにあぐらをかき、うまい汁だけを吸っている連中がたくさんいるのだ。
自分はすでに報われて当然の苦労を充分に積み上げた。 それに対し、誰も自分に報いないなら、自分で自分に報わなければならない。 だから、これまでの自分の苦労を考えれば、これくらいの逸脱は当然の権利であると、自分勝手な理論を次第に蓄積させていくようになった。
……それは、無自覚の怒りだったに違いない。 その怒りのはけ口を他者に向けなかったなら、彼はそれでも高潔な教師であり続けられただろう。
……だが彼は、それを他者に向けた。こともあろうか、自分の教え子の少女にだった。 だからその時点で、その高潔な生い立ちに関係なく、彼は最低の男であることに間違いなかった。
彼は今や学校に来る目的は、将来の社会を担う少年少女たちに学問を教えることではなく、少女を思うがままに蹂躙して報われない自分を慰めるためだと自覚までしているのだ。 それに対し、金森が罪の意識を持ったのは本当に最初の最初だけだ。 弱みを握り、自分の欲望に何の枷も付けることもなく吐き出せる快楽は、彼から罪の意識を奪うのに大して長い時間を必要ともしなかったのである……。
朝の気怠い職員会議は、いつ終わるとも知れず、長々と続けられていた。 通信簿の評価にクラスごとの格差があり保護者から苦情が云々。市内の学校でプールを媒介にした皮膚病が流行ったので、タオルを共用しないよう指導を厳しく云々。 つい昨年までは一線の教師だったとしつこく繰り返す教頭は、偉ぶり、職員室の中で我が物顔で発言をできる悦にすっかり取り憑かれてしまったようだった。
そんな中、私の心は、早く放課後になって毬枝をいつもの旧校舎のトイレに呼び出し、どのようにして自分の欲望のはけ口にしてやろうかという、どろどろとした妄想でいっぱいに満たされていた。
プール開きが始まり、学校指定の濃紺の水着が眩しい季節になった。 ……下着にランドセルという組み合わせにもそろそろ飽きてきたところだ。今度は学校指定水着にランドセルでも背負わせてやろうか。 …きっと、誰も見たことのない、滑稽で馬鹿馬鹿しい格好になるに違いない。
そんな滑稽な格好も、私が命じて準備させれば、翌日の放課後には実現でき、何一つ逆らうことのできない少女に好きなだけ妄想をぶつけることができるのだ。
1人の少女を支配すること。 ……これだけの犯罪的行為で、まるで自分はこの職員室にいる誰よりも高みに達してしまったように私は錯覚することがあった。 ……多くの哲学が、人間が達するべき高みについて問い掛けてきた。 私は、どうすれば自分の人間としての格を上げることができるのか、他人に見下されているように感じずに済むのか、若い日に真剣に悩んだことがある。
でも、その解決方法はこんなにも身近に転がっていたのだ。 誰かを支配し、その上に立つ。 それだけのことで、私は子供の頃から拭えなかったコンプレックスを克服することができたのだ。
だからこそ、自分は今や、誰からも見下されているように感じることはなく、それどころか、生徒のいないところで下世話な話に花を咲かせる同僚たちを見下す優越感にさえ浸ることができたのだった。
……だが同時に、すっかり影を潜めてしまったはずの、怯えの心がわずかに残ることも自覚していた。
思いのままに少女を自在にできる日々は、今日も明日も明後日も続くだろう。 ……だが、来年も再来年も十年後も続くわけがない。 森谷毬枝が一生徒に過ぎない限り、やがて進級し、卒業する。彼女を取り巻く環境は変化し、いつしか私の支配が及ばなくなる時が来るだろう。
その時、疎遠になったカップルがいつの間にか別れてしまうように、綺麗さっぱり終わってくれればいいが、それに期待するのはあまりに無謀だった。
私が毬枝に強いてきたことは、まったく言い訳の余地なく犯罪だ。
私からの解放を望む彼女は、決して誰にも言わないといつも誓うが、それは私の支配下にあり、逃げ場がどこにもないからこそであって、状況や立場が変われば、すぐにでも豹変し、警察に通報するに違いない。 ……例え、今がどれだけ従順であってもだ。
人は心の底から屈服したりなどしない。 いつか訪れる解放の日までを、もっとも風当たりが少なく過ごす方法として、屈服して見せるだけなのだ。 森谷毬枝は、いつかきっと自分を裏切る。
だからこそ。……私は、この心とろける日が一日でも長く続くように。そして、それでもいつかは必ず終わりを迎えるこの日々が平穏に終わることができるよう、少しずつ考え始めていた…。
始めに思いついたのは、彼女が卒業してからも支配を続け、永遠に私を裏切らないようにすること。 ……だが、永遠を維持することなど人の身にできることではない。 となれば、この日々が必ず終わることを前提に、綺麗に終わらせることを考えなければならないのだ。
綺麗な終わりとは、どのようなものなのか。 永遠に裏切らない保証がない相手を、永遠に裏切らないと信用できるよう終わらせるのはどのようなものなのか。 それを突き詰めた時、…行き着いた答えは非常にシンプルだった。 その回答は、テレビや映画にいくらでも溢れていた。だからすぐに思いつくことができた。
……この頃から、……私の心の中に、……いつしか、森谷毬枝を殺サナケレバナラナイという考えが芽生えるようになってくる。 少なくとも、今の時点では毬枝は従順だ。 家庭環境に不和を抱えるという彼女は、家族にも相談できず、元々いじめられっ子なので、クラスにも相談できる友人はいない。 だから、彼女が従順である内に、確実な方法で彼女を葬ってしまうべきなのだ…。 私の手の平に、じっとりと嫌な汗が溜まるのがわかる。……そう、これはツケなのだ。
1人の少女を蹂躙し欲望のはけ口にするという、許されぬ罪に対するツケ。 だが、そのツケの支払い方は、罪にさらに罪を重ねるという非人道の極みだ。
………でも、私より悪いやつはいくらでもいる。 私は今日まで、いや、今日以降も、滅私奉公を続け、誰よりも高潔に教職であり続ける。 担任を精力的にこなし、部活の顧問や保護者とのトラブル、それらを誰に愚痴ることも、誰に報われることもなくこなし続けている。 だから私は、これまでの功績を考えれば、この程度の悪事を差し引いても、まだ悪人とはなり得ないはずなのだ。
世の中、うまくやったヤツだけがのさばれる。うまくやれないヤツはいつまでも利用され続けてくたばって死ぬ。
ただそれだけのこと。 俺はその当り前の原理ってヤツを、森谷毬枝に特別授業で教えてやってるだけじゃないか。 ……それに気付けないヤツは、生涯を誰かに支配され、屈服して生き続けていくしかない。詐取され続けて当然なのだ。
……とにかく、毬枝はまだ従順だ。 ……いつもひと気のない旧校舎のトイレに呼び出しているが、場所を変えて呼び出すことも可能だろう。 ひと気も証拠も何もないところにうまく呼び出して、絶対にバレない方法で殺してしまうことはできないか……。
ゆっくり考えよう。必ず完璧な方法が思いつくはずなのだ。 だが、それを今日明日までに大急ぎで用意しなければならないわけじゃない。…今日明日程度では、毬枝は私の支配から逃れられることなどあるはずがないのだから。
今日はどのようにして欲望を吐き出してやろう。卑猥な妄想に再び頭の中が満たされていく……。 その妄想は、予鈴によって教頭が長話を打ち切るまで、ずっと続くのだった。
「めそめそさんが出たんだって。」「めそめそって泣いてたのを聞いたんだって。」
学校は子供の国だ。…だから、子供の中でしか通用しないような、妙な迷信が横行しているのはよくあることだった。 廊下を歩いている時、ふと聞こえたそれは、最近、その名を聞くようになった新しい学校妖怪のようだった。
学校妖怪というのはアレだ。 例えば、夜中に踊り出す理科準備室の骨格標本や、目が動くという音楽室のベートーベンの肖像。どこの学校にもあり、そして大して代わり映えのない学校怪談によく登場するあれらのことである。 学校の七不思議なんて呼ばれたりもするアレだ。
この学校ではどんなものが七不思議の妖怪なのかはよく知らないが、どうせどこかで聞いたことがあるようなものばかりだろう。
子供たちが話しているのは「めそめそさん」という妖怪らしい。その名のとおり、めそめそと泣く妖怪らしい。 実に子供らしい、安直でいい加減なネーミングだった。 くだらないと思い、足早に通り過ぎようとした時、私の足が自然に止まる。 こんなことを言い出したのが耳に入ったからだ…。
「うん。めそめそさんはね、旧校舎の女子トイレに出るんだよ。そしてね、個室の中で、めそめそ、めそめそと泣いてるの。誰が泣いてるんだろうって思ってね、個室のドアを叩くと、中からこう聞こえてくるの。」
“めそめそ、めそめそ。そこの人、どうか哀れな私の話を聞いてください。” ……………………ッ。 私は背筋に、ぞぉっとしたものが這い上がってくるのを感じずにはいられなかった。 子供たちが話している「めそめそさん」は、妖怪でも何でもなく、…本当に実在するかもしれないからだ。
旧校舎のトイレの個室の中で、めそめそと泣く何者か。 そして、それにどうしたのかと話し掛けると、“哀れな私の話を聞いてください”と話し掛けてくる。
私は硬い唾を飲み込み、霜柱でびっしりになりそうな頭を必死に働かせる。 ……それは妖怪なんかじゃない。 毬枝。………森谷毬枝のことなのではないのか。
二人で一緒にいるところを誰かに見られたら、無用の勘ぐりを受けることもあるかと思い、いつも放課後の逢瀬を終えた後は、私が先に出て、その後に時間をおいてから出るように言っている。
……つまり、自分が先に出て行った後には、毬枝がひとりでトイレの個室に残っているのだ。 そこに、何の気まぐれか旧校舎に入り込んだ生徒が誰かやって来て、……個室の中でめそめそと泣く彼女の声に引き寄せられたとしたら…。 毬枝は、自分のことを打ち明けようとしたに違いない。 ……ところが、そこへやって来た生徒は、それを妖怪だと思い込み、逃げ出したに違いないのだ。
それは、……何という偶然なのか、奇跡なのか。私は知らずして致命的な危機を回避していたのだ。 もし、その生徒が妖怪だなどと思い込まず、毬枝の話に耳を傾けていたならば。 …今頃、私は檻の中にいたに違いない。 …その偶然の奇跡に、私は今さらのように冷や汗を流さずにはいられなかった。
「でね。めそめそさんに話し掛けられてもね、決して話をしちゃいけないんだって。もしもね、めそめそさんと話をしたり、その正体を見ようとして扉を開けたりしちゃったらね、…………………大変なんだって。」「大変って…?」
「…トイレの中に引きずり込まれて、全身の骨を砕かれて殺されちゃうんだって。だから、決して話をしようとしたり、姿を見ようとしてはいけないんだって…!」「怖い怖い怖いー!」
「でもさ、旧校舎のトイレなんて、普通、行かないよね! だから、めそめそさんが出てくるトイレに近付かなければいいだけの話だもんね!」「近寄らない方がいいよいいよ、絶対いいよ。だって、わざわざ行って、本当に個室の中にいてめそめそ泣いていたら、怖いもん…!」
……は、…ははははははは。 その話を聞き、私は思わず吹き出さずにはいられなかった。
森谷毬枝の泣き声を誰かが聞き怪談にしてしまった。そこまでは危険な誤算だった。 ……だが、だからそのトイレには近付かない方がいい、という論法になるとは夢にも思わなかった。 救いを求めたはずの毬枝の泣き声は、皮肉にも逆効果となり、生徒を寄せ付けなくしてしまったのだ。
女子たちは迷信深い。この手の迷信に自ら踏み込むような真似は決してしない。 逆に男子はこの手の話を非常に好む。だが、女子トイレという場所は思春期直前の男子にとっては、どのような理由があっても、踏み込んだことが知られれば、囃し立てられることになる禁則の場所でもある。
つまり、めそめそさんの怪談は、より一層、あのトイレに人を近付けなくしてくれた、と言うわけだ。
………いや、それは楽観し過ぎだろう。 ほとんどの生徒は怪談を恐れてくれるだろうが、これだけ大きな学校なのだ。1人くらいは恐れ知らずの生徒がいるに違いない。 たった1人と言えども、私たちの秘密を生徒に知られれば、私の身は破滅する。 ……私は事態が緊迫していることを再び認識しなければならなかった。
今日も放課後に、いつものように旧校舎トイレに毬枝を呼びつけていた。 ……それを最後に、しばらくの間は様子を見た方がいいかもしれない。 少なくとも、旧校舎トイレに代わる校内の死角を見つけられるまでは様子を見るべきなのだ。 本当の本当に私が慎重なら、……今日の毬枝との逢瀬も見送るべきなのだ。 だが、………愚かしい男の性。 私は毬枝を奴隷化したつもりでいて、…実は毬枝の奴隷となってしまっている。
今の私にとって、すでに日々は耐え難い苦痛であり、毎日の終わりに、その苦痛を癒す手伝いを毬枝に強いねば、ただの一日も堪えられないほどであった。 毬枝に私のことを飼い主だと呼ばせておきながら、実際に飼われているのは自分の方なのだ。 毬枝にとって、私に呼ばれない一日は安息の一日だろうが、私にとって、彼女を呼び出さない一日は癒せぬ苦痛に喘ぐ一日なのだから。
だから私は、あのトイレにもう呼び出すべきではないという緊急性を感じていながら、でも今日の呼び出しはキャンセルしたくないという矛盾を持っていた。 今日、如何にして彼女を蹂躙するか、そのことで朝から頭がいっぱいだった。 それをお預けにしたら、私の頭はどうかなってしまうに違いない。
だから、危険を承知で、今日も私は毬枝を呼び出す。 しばらくの間、呼び出せなくなってしまうのだから、今日は心ゆくまで思い切り、いつまでもいつまでも楽しんでやるのだ……。
あぁ、毬枝……、毬枝、……愛しているよ……。 お前も、お前の体も、狂おしいほどに、……愛している……。 ま、……毬枝ぇ……。ふ、ふっふひひひ、はは、は……。
……無論、毬枝の耳にも、めそめそさんの話は及んでいた。 めそめそさんの話は毬枝の8組の、噂好きな女子たちの間でも持ちきりになっていた。
「怖いね…! 旧校舎のトイレなんてわざわざ行かないけど、ますます使いたくなくなっちゃうね!」「でも怖いー! 旧校舎でなくても、閉まってる個室をノックして、中から、めそめそ…なんて聞こえてきたら嫌だよね…!」「どうする? そこのトイレでさ、ノックしたら、“めそめそ…、そこの人、どうか哀れな私の話を聞いてください…”なんて言われたら!」
「やっだーーー!!! あははは! 逃げる逃げる! 返事しただけで全身の骨を砕かれて殺されちゃうんでしょ? やだやだやだー!」 ……それを聞きながら、毬枝は悲しい気持ちになっていた。 どうしてみんな、中の人の悩みを聞いてあげないのだろう……。
毬枝も自覚していた。…多分、それは自分のことなのだ。 よく覚えていないが、以前、それまでに一度も要求されたことのない酷い事を強いられた時、…辛くて悲しくて、解放された後に涙が止まらなかったことがあった。 …その時、トイレに誰かがやってきて、……あまりの悲しさから助けを求めたくて、そんな風に語り掛けたことがあった気がするのだ。
そして、…その怪談が伝えるように、扉向こうの誰かは逃げ去っていってしまった。 その話はいつの間にか怪談となり、…自分はいつの間にか、めそめそさんという妖怪にされてしまっている。 誰かに助けを求めたくても、話を聞いたりしたら全身の骨を砕かれて殺されてしまうことになってるのだから、誰も話など聞いてくれたりはしない……。
……悲しかった。自分のたった一回の勇気を、妖怪の仕業にしてしまった誰かが恨めしかった。 でも、………妖怪というのも悪くないかもしれないとも思った。 いつ終わるとも知れない悪夢の日々に、もう毬枝の心は灰のようになっていた。
……最近、マンションのエレベーターを待つ時、眼下を見下ろしていると、8階という高さにも関わらず、アスファルトの大地がとても柔らかく、慈しみを感じられることがあるのだ。 家にも学校にも居場所がなく、これからも行き先がわからない自分を、本当にやさしく受け止めてくれるのではないか。……そう思うようになっていた。
でも、死は単なる逃避でしかない。自ら認める敗北で、解決にはなり得ないのだ。 ならばせめて、自分を弄ぶ先生に、何か一矢を報いたい……。 でも、非力な自分がどんな仕返しをできるというのか。
先生が自分に強いてる行為は、全ていけないことだとわかっている。 自分に破滅する覚悟があるならば、全てをさらけ出し、先生を道連れにすることもきっとできるのだ。
先生は、私に強いた数々の行為の一部をホームビデオで撮影していたことがあった。…そして、もし自分を裏切るようなことがあればそれをばら撒くとも言っていた。
……自分に破滅する覚悟があるなら、先生を道連れにすることもできよう。 でも、破滅した後の自分には、多分、生きているだけでも辛い辱めの日々が待ち受けているだろう。 …その恐ろしさは、復讐したい気持ちと十分、天秤にかけられるものだった。
どうしても逃げられないなら、自殺しかない。 ……でも、できることなら死にたくない。 死なずに復讐することはできないものか……。 そんな都合のいい方法、あるわけがない。
……復讐など出来ず、それでも生きていたいなら、……結局、今日も放課後に、決められた時間にあのトイレに行って先生を待たなければならないのだ……。
……だから、思う。……自分が本当に『めそめそさん』という妖怪になれればいいのにな、と。 めそめそさんは恐ろしい妖怪で、相手を引きずり込み、全身の骨を粉々に砕いて殺してしまう恐ろしい力を持っていると言う。 ……そんな力が自分に与えられたなら、……きっときっと、あの男に復讐できるのに…。
あの男はいつも私をチューインガムのように扱う。……噛んで噛んで、噛んで噛んで、味が出尽くすまで噛み尽くして、…最後にぺっと吐き出して捨てて、勝手に服を着て勝手に帰れと言い残し、勝手に帰って行くのだ。 だから私にめそめそさんの力があったなら、……私もあの男を噛んで噛んで、噛んで噛んで噛んで、全身の骨を粉々に砕いてから、ぺっと吐き出してやるのに……。
それはつまり人間をやめて妖怪になりたいということだった。 人間をやめるという意味においては、自殺とそんなに意味は変わらない。 でも、単に人間をやめたいというだけでなく、別のものに生まれ変わって復讐したいという点において大きく違っていた。
最近、私にもうっすらとわかるようになってきていた。 学校は、人生の縮図なのだ。学校程度でいじめられる人間は、社会に出ても何も変わることはない。また同じ役目になるだけだ。
学校にいる内に、いじめられっ子を抜け出せない人間は、生涯、いじめられっ子から抜け出せはしない。 そして、…自分は抜け出すことのできない人間なのだろう。
だから、私がこのまま人生を続けても、どうせいいことなど何もない…。 社会に出ても、また先生のような男に囚われ、抜け出せない日々に再び戻るだけに決まっているのだ……。 ……そこまで理解しながら、自ら死を選ぶだけの勇気が持てない。 だから、妖怪になって復讐したいなどという、前向きなのか後向きなのかもわからない、妙な考えになってしまうのだ…。
どうすれば、めそめそさんになれるのだろう……。 どうすれば、自分は学校に数多ある学校妖怪の一員に加われるのだろう……。 みんなが噂するめそめそさんは、本当は自分なのだ。でも、自分はみんなが噂するような妖怪ではない。
「……めそめそさんは私なのに…。……どうすれば、……本当のめそめそさんになれるんだろう…。」
毬枝はそんなことをぼんやりと考えながら、放課後の指定された時間まで、図書室でぼんやりと時間を潰していた。 だから、それは小声の独り言だったはず。 聞く者があったとしても、何を言ったのか聞き取れない程度の小声だったはず。 なのに、…その小声に対して返事があったので、毬枝は驚かずにはいられなかった。
「………ということは。あなたが噂のめそめそさん…?」「……え…?」
毬枝の前には、いつの間にかひとりの少女がいた。 もちろん面識のない子だった。 一学年にクラスが10を超えることもあるマンモス校だ。転入、転校も激しい。 同じ学年であっても、面識のない子などいくらでもいた。 その子の身なりはとても上品…、というか、豪華だった。
まるでピアノの発表会でもあるかのような、綺麗で豪華な身なり。…まるで、美しいドレスを着たお人形がそのまま人間になったような、そんな身なりだった。 それはもちろん顔立ちや髪型もだ。手入れだけでも相当の時間を掛けて丁寧にしていることがすぐにわかった。 でも、…目つきもお人形のようだった。とても美しく、まるで宝石のよう。…だけど、血の通った温かさを感じることはできなかった。
服装や髪型に対しては、お人形のようというのは褒め言葉になるだろう。……でも、目つきに限り、お人形のようと例えるのは、褒め言葉にならないときもあるかもしれない。 …毬枝はこの少女の目つきに対し、そんな印象を感じていた。
この子は、同級生だろうか。上級生だろうか。…もし上級生だったなら言葉遣いに気をつけないと……。 だから毬枝は、せめて相手の学年だけでも知りたくて、目の前の少女の名札を見ようとする。 でも、雨に滲んだような名札で、よく読み取ることができなかった。
「私の名札より、あなたの名札が見たいの。……見せて?」
「…え? あ、…あ、…ご、ごめんなさい…!」 毬枝の腕が名札を遮る形になっていたので、その少女から名札を見ることができなかったのだ。 また、自分が名札を覗き込んでいたことが悟られていたので、毬枝は慌てながら自分の名札を見せる。
「8組の子なのね。この学校は生徒がいっぱいいるからよくわからないわ。うふふふふふふ。」 その少女は、毬枝が8組の生徒だとわかって満足そうだったが、毬枝には少女の名札がぼやけていてよく読めない。 このような上品な服装でも、学校規定の名札を欠かさないところに、何だか不思議な滑稽さを覚えた。 毬枝はがんばって目をこらし、何とかクラスだけを読み取ったが、それも何だかおかしかった。
だって、B組と読めたからだ。 ……アルファベットのクラス名などこの学校にはないはずなのに…。でも名札の書式はこの学校のものだ。 それ以上をじろじろ覗き込んでいると失礼に当たると思い、毬枝は名札を見るのをやめた。
「森谷毬枝さん? 最近の子の名前は難しくなる一方ね。…私の名前も負けないけれど。彼岸花(ひがんばな)って呼んで頂戴。よろしくね、毬枝?」
「え、…ぁ、……はい。よ、よろしくお願いします…。」 少女が名乗る彼岸花という名が、名前なのか苗字なのか、毬枝には判断がつかなかった。 でも、彼女と一対一で話す限り、特に名前を呼ぶ必要はない。 ……毬枝は無理にその名を記憶に留める必要もないだろうと思った。
すると、彼岸花と名乗った少女はくすりと笑う。 …それはまるで、その名を怪訝に思ったことを見抜かれたかのよう。 見抜かれるはずのない感情を気付かれ、毬枝は少しだけぞっとするのだった。
「それで、さっきの話なんだけれど。……あなたはめそめそさんなの? それとも違う?」
「…えっと、……あれは、……その………。」 毬枝は何と答えて良いかわからなかった。
おそらく、めそめそさんの怪談の原因は自分にあるから、その意味では自分は間違いなくめそめそさんだろう。 ……でも、生徒たちが噂するような妖怪ではない。 だから毬枝は、どう答えればいいかわからなくて、しばらく困惑しなければならなかった。
彼岸花は、そんな毬枝の様子を見てくすりと笑う。 まるで、毬枝が口に出さなくとも、その胸中がわかっているかのようだった。
「……この学校は、こんなにも大きくてたくさんの子供が集まっている。知ってる? 妖怪はね、人の想いに集まるの。だから、こんなにもたくさんの生徒がひしめく学校だったら、並の学校よりもたくさんの妖怪が集まってくるのよ。」
「あなただって知ってるでしょ? 学校の七不思議。学校に住まう七大妖怪。普通の規模の学校なら七つも席があれば充分なんだけれど。これくらいの大きな学校だと、七席以上があってもいいとは思わない?」
「……だからこの学校を統べる妖怪の席数を増やさないかって話が出てるのよ。それで席数を増やそうという話になったら、ちょうどよく、めそめそさんという妖怪が現れたという話だから、どんな子かなって思って、ずっと探していたの。……でも驚いたわ。だって、いざ見つけてみたら人間だったから。くすくすくすくす……。」
「わ、……私は、…その、…妖怪じゃないですけど、………その……。」
「でも、めそめそさんなのよね? 別に人間だからダメってことはないと思うわよ。七席の中にも、元は人間ってのもいるしね。私は違うけれど。……くすくすくすくす。」 彼岸花はくすくすと笑う。美しいお人形が調度品に囲まれて優雅な仕草をするように。 ……だけれども、動くはずのない人形が笑うかのような不気味さも同時に持ちながら、くすくすと笑う。
毬枝は決して夢見がちな少女ではなかったが、……直感した。 彼岸花は人間ならざる存在に違いないのだ。…そして、めそめそさんという新しい妖怪が、自分たちの新しい仲間に相応しいか品定めに来た、ということに違いない…。
「あの、…………ひ、…彼岸花さんは、………妖怪なんですか…?」
「えぇ。クラスでは“踊る彼岸花”って呼ばれてる、七席の序列第3位。一応、保健委員もやってるのよ。保健室になぜか置いてあるお人形。あれが夜中にひとりでに踊り出すっていう怪談、聞いたことない?」
「……え、………あ、……ご、ごめんなさい…。そういう話はよく知りません……。」
「あらそう。…堪えるお言葉をありがとう。」 そこで初めて彼岸花は表情を曇らせて口を尖らせた。…自分の名を毬枝が知らなかったことが不愉快だったらしい。 だが、その表情を見て、ようやく毬枝は意思の疎通ができていることを実感する。 自分を学校の七不思議に連なる妖怪だと自己紹介する彼女が何者なのか、未だわかりかねていたが、少なくとも悪い人ではなさそうだった。
「あの、…彼岸花さんは、……何をしにいらしたんですか…? め、…めそめそさんを、仲間に迎えるため、…ですか…?」 毬枝は恐る恐る聞く。 友達を持ったことのない毬枝にとって、例え素性の知れない、それも自分を妖怪だと名乗る少女であっても、自分を仲間に迎えたいとやって来てくれることに、実は小さな喜びを感じていた。
妖怪の仲間に加わる、ということは、人間としての生を終えろという意味かもしれない。 …ならば、自分はこの彼岸花という妖怪にこの場で祟り殺されてしまうのか……。 ……でも、それも一興だった。 このままあの男に慰み者にされる日々を永遠に繰り返さなければならず、自ら死を選ぶ勇気もないならば。……今この場で彼岸花に祟り殺されて、彼女の仲間に加えてもらえた方がずっとマシだと思った。
「………ふぅん。人間をやめる覚悟はあるってわけ。」
「は、……はい。」
彼岸花はにやりと笑うと、値踏みするように毬枝の頭のてっぺんからつま先までをじろじろ見る。 この頃になると毬枝は、彼岸花には言葉に出さずとも胸中を読み取れる力があることを疑わなくなっていた。 ……そう心の中で思うと、その通りと言わんばかりに彼岸花はもう一度にやりと笑うのだった。
「なら、本人の意志は問題ないってことね。気に入った。序列の第8位に“めそめそさん”を加えるよう、うちのクラスの学級会で推薦する。多分、あっさりと決まると思うわ。めそめそさん、みんな気に入っているもん。……くすくすくすくすくす。」 彼岸花は上機嫌そうに笑う。
でも、毬枝が瞬きをひとつすると、笑い声は聞こえているのに姿は消えてしまい、……もう一度瞬きをすると、今度は声も消えてしまい、もう一度瞬きした時には、気配すらも消え去ってしまっていた……。
だからそれは、あっという間の出来事。 ……毬枝は焦り、彼岸花の姿を探すが、二度と見つかることはなかった。 消えたことにより、…彼岸花が人間ではないということがわかった。そんな存在から仲間として受け入れようと言ってもらえたことに嬉しさを感じた。
だが、消えたことにより、…今の出来事が全て自分の白昼夢に過ぎないのではないかという恐れも生まれた。それを払拭したくて、彼岸花の姿を探す。
でも、……見つからない。 妖怪の姿は向こうが望まぬ限り、人間の目に映ることはないのだから…。 ……今の出来事は果たして真実なのか、…それとも逃避したい自分が見た、束の間の白昼夢なのか。
毬枝は、彼岸花の存在を、……信じることにした。 今の鮮烈な体験が、自分の妄想のわけがない。 私は学校妖怪に誘いを受け、……人間を終え、ようやく苦難に満ちた日々から抜け出す道筋を見つけたのだ。 人の身を捨てれば、きっと私を慰み者にした先生に復讐する力が得られる。
でも、人を呪わば穴二つ、というのも理解している。 全てを失う覚悟なくして、復讐など成し得ないのだ。
……人間をやめる覚悟。今日までの生活を全て捨てる覚悟。 それを自覚した時。……毬枝は心の中に、ほんのわずかに灯った感情があった。
だが、その感情が何かに気付く前に、時計の針は、旧校舎トイレへ行かねばならない時間が来たことを告げる。
彼女は再び無表情な、……彼岸花以上に人形のような蒼白な表情に戻ると、とぼとぼと旧校舎へ向かうのだった。 心の中に灯った何かが、どういう感情なのかを考えながら。
……その感情の名は、覚悟。…あるいは決意だった。 彼岸花に、自分は人間をやめる覚悟があることは伝えた。 あとは彼女のクラスの学級会で、めそめそさんの存在が認められるのを待つだけだ。 ……認められたなら、私は学校に住まう妖怪として迎えられるだろう。 多分、私の命は失われ、人としての生を終えるという通過儀礼を経ることになるはずだ。 つまり、……私はもうじき、人間の生を終える。 ならば、駄目で元々…。自分が人間の身である内に、たったひとつの勇気を試してもいいのではないか……。
毬枝は項垂れながら旧校舎のトイレを目指す。 でも、その握り拳は、小さくだけれど力強く握られていた…。
「……先生。…お、……お話があります。」 毬枝がそう切り出した時、金森は直感した。 彼女との禁じられた関係は永遠に続くものではない。いつか何らかの形で終わる日が来る。 ……そして、その日がついに訪れたのだと直感した。 だから毬枝が、今日でこの関係を終わりにしたいと、たどたどしい口調で言うのを聞きながら、聞き終わる前にそれを全て理解するのだった。
だが、今日という日がやがて訪れるのを理解していたにも関わらず、それがまさか今日だったとは思わず、金森は少なからず焦っていた。 この日がやがて訪れることを理解していながら、どう切り返すかまったく考えてこなかったことは明白だった。
「……そんなことを言っていいのかい…? 君と先生のことを録画したテープだってあるんだよ…? あの恥ずかしいテープを誰かに見られてもいいのかい…?」
「……誰かに見られるのは嫌ですけど……、…でも、見られて困るのは先生も同じだと思います。」
「………む………。」 非道の限りを尽くしてきながらも、それでも金森は大勢の生徒を相手に観察眼を養った教師でもあった。…だから、毬枝の様子を見て確信する。 毬枝は何かを切っ掛けに決別を切り出す勇気を持ち、…しかもそれを口にしながら、自らの言葉でますますに勇気付けられているのだ。 こういう手合いはまずい。丸め込もうとすればするほど、かえって頑固になっていってしまう…。
……しかし、あれほど内気で従順だった毬枝が、なぜこれほどの勇気を突然に持ったのか。
……ま、まさか、誰かに打ち明けて相談したのか…? それは自らの破滅を意味する。……そうなるリスクと背中合わせの日々であることは、誰より自分が知っていたはずだ。 だがその危険性を、日々の快楽に溺れすぎて忘れていた。脅迫用のテープがあれば、それだけで屈服できると甘えていた…。
毬枝に強いてきた行為を録画したのは、もちろん保険の意味だけではなかった。…自分の下劣な欲求を満たすための行為のひとつでしかない。 だが、それは都合よく、彼女の裏切りに対する抑止にもなってきた。…行為を録画したテープが脅迫になるという、ある種のステレオタイプが毬枝には通用したのだ。 ……だが、支配最大の砦だった録画テープによる脅迫もあっさりと否定され、今や毬枝を支配し続けることのできる枷は何も存在しなくなっている…!
「……こ、…このことを誰かに話したりしたのかい…?」
「……い、…いいえ。まだ誰にも話していません。」
「も、…もし誰かに話したりしたら、……先生も、あのテープを……。」
「わ…私もそれは嫌です…。ですから、その、……先生があのテープを捨ててくれるなら、私も誰かにしゃべったりしません。」 金森はわずかに安堵する…。 まだ毬枝は誰にも話していない。まだ私の身に破滅は訪れていない…。 まだ手遅れではない、まだどうにかできる……。 毬枝がどう強気に出ようとも、あの録画テープの存在は彼女にとって永遠にアキレス腱なのだ。 だから、それと対等な条件として、彼女が私のことを誰にも話さないというのは妥当な話だ。
でも、…だからといって、毬枝がずっと口を噤んでいてなどくれるだろうか…? ……今はまだ私のことを恐れていてくれているからいい。互角の立場くらいにしか思っていないからいい。
だがもし、彼女がさらに勇気を持ち、刺し違えてでも私を警察に突き出そうと思ったなら……。 私はそれを防ぐことなど何もできない。 警察は瞬く間に私を取り押さえ、アキレス腱であるテープをばら撒かせる時間など与えないに決まっているのだ。 第一、彼女を脅す時、私がいつも繰り返し口にしてきたテープのばら撒き。…それに実際はどれくらいの時間と手間が掛かるというのか。 無理だ。ポケットに忍ばせたスイッチひとつで彼女が破滅させられるほど簡単ではないのだ。 それに比べたら、警察に駆け込んで事情を話すほうがはるかに容易…! ……毬枝が立場を互角だと誤解してくれている今だけが均衡状態なのであって、……もし、立場が圧倒的に違うことに気付いたなら、すぐにでもその均衡は破れるだろう。しかもそれは、自分の努力ではもう防ぐことができない…!
つまり、………すでに均衡は破られているのだ。 毬枝はまだそれに気付いていないだけ……。 今日この場は、納得したふりをして誤魔化すこともできる。 だが、今夜にも彼女は警察に電話をするかもしれない。……もう、毬枝に私の支配は及んでいないのだから。 そう。姿が見えなくなったら最後。もう、いつ牙を向いてもおかしくないのだ……!
……なのに、毬枝はその絶対的な状況にまだ気付いていない! 何と言う愚かなヤツ! そのくらいに鈍感で間抜けで、所詮はいじめられっ子の器なのだ。 ……そんな間抜けにッ、今日まで努力を積み重ね、名門高校、名門大学、そして教師と駒を進めてきて、やがては教頭、校長とさらに高みに登っていく自分の足下をさらわれることになるなんて…! 私は理不尽な怒りに腸が焼かれるのを感じる。 とにかく、………今この場で何かの決着をつけなければ、私は明日の朝すら待てずに破滅する…!
今こうして、毬枝が目の前にいる内に。 今こうして、トイレの個室の中に二人っきりでいる内に。 今こうして、無人の旧校舎に二人っきりでいる内に、…何とかしなければ!! そこまで至っているなら、答えはあまりに簡単だ。 そして、その答えは頭が理解するより、手が行動に移す方が早かった。
………アトハ、全テ異様ナ光景………。
視覚はどろりと歪み、世界の全てを荒れる水面越しに覗くような気分だった。 それは視覚だけじゃない。…聴覚も、触覚さえも、全てがどろりと澱んで荒れる水面越しのよう。
その澱みの向こうに自分は手を突っ込み、毬枝の細い首を捻り潰そうとする。 …それはまるで、幼少期の記憶の、小川でフナを素手で追いかけた時を連想させた。
……あの頃の私の夢は何だったっけ。総理大臣だったっけ、ジャンボ機のパイロットだったっけ。…それがどうしてこんなことになっちまったのかなぁ…。……こうして、小川でフナやザリガニを追い回していた頃が一番、楽しかったのになぁ…!! 毬枝が痙攣しながら、宙の何もありはしない虚空を睨んで、口から涎とも泡ともつかないものを垂らし始める。 そうさ、毬枝の息の根を止めるのも、フナやザリガニを苛め殺すのも、こんなにも同じ感触だったのだ。結局、生き物は、人もフナもザリガニさえも、大して違いはなかったってわけさ…。……くくく、ひひひひひひひひひひ!!!
いくら絞めても至らない、芯の芯を絞め潰してやるため、最後の渾身の力を込める…! ……そして、……至った。
痙攣するような毬枝の抵抗は、全身の緊張が解けていくように、少しずつ失われていき、………最後には、自らの体重を支えることもできないくらいに脱力した。
首を掴んでいる手に、毬枝の全身の重さが掛かる。 ……毬枝がもはや自立しておらず、私の手の力だけに頼って直立しているフリをしているのは明白だった。
だから、私が両腕の力をわずかでも緩めれば…、するりと手を抜けて、崩れ落ち、重力に従うのは当然のこと。 ……毬枝は、壁を背負いながら、…それでも壁との摩擦を利用して、崩れ落ちる時間にすらささやかな最後の抵抗を見せると、……とうとう床にうずくまった。
それは、崩れ落ちて座り込んだのとはまったく異なる。 人だったら、座る時に、着衣が乱れないよう気を遣った座り方をする。…でも、毬枝の座り方にはそういう気遣いは一切感じられなかった。
着衣を乱し、あられもなく捲れたスカートの裾。それを直そうとする恥じらいすらも一切なくし、……毬枝はそこに座っていた。 いや、座るという表現はもう適当ではない。 毬枝はそこに、死んでいた…。
………殺人を犯したという実感が急激にこみ上げてくる。 でもそれは恐れでもなければ自戒でもない。…どちらかというと、あれだ。 ……おつまみのピーナツの袋を開けようとしたら、威勢よく中身を絨毯の上に全てブチまけてしまって、その惨状を見ながら、掃除が面倒臭いなぁとぼやきたくなるような、…そう、ある種の面倒臭さだ。
もう殺してしまった。後悔したってどうにもならない。…なら、後悔は不要だ。 毬枝が死んで、自分が生きているなら、…自分はこれからもしゃあしゃあと生き続ける。そのためには、毬枝の死体を隠さなければならない。
…どこへ? 今は咄嗟に思いつかないが、ほんの少しの冷静さを取り戻せば、いくらでも思いつくだろう。 それにナイフで刺したわけじゃないから目立つ痕跡が残るわけでもない。 もう放課後も遅い時間だ。生徒の人影は全て消えている。教師だって、自分の仕事が忙しくて、校内のことなんか気が回らないさ。…ましてや、旧校舎のトイレで殺人が行われていて、これから俺が死体をどこかへ隠すなんてことにまで気が回るヤツが、いるわけもない…!
「………はぁ、………はぁ、…………はぁ……。」 そこでようやく私は、浅からぬ呼吸をしていたことに気付く。 ……やはり私は、自分がそうだと思っているほどの冷血漢ではないらしかった。 落ち着け、何も焦ることはないんだ…。落ち着け、落ち着け……。
……………………? その時、廊下の遠くから、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。 歩き方の特徴から、おそらく生徒の誰かだろうと思う。 ……しかし、こんな時間の旧校舎の、それもこんなトイレに何の用だってんだ…?!
……そうだ、このトイレには確か「めそめそさん」とかいう妖怪が出る、という噂になってたんだっけ…。 迷信深い生徒たちのほとんどは近寄らないが、……生徒の中には物好きもいる。近寄ってはならない場所だと脅されれば脅されるほどに、わざわざ近寄ってみようと思う好奇心の強いヤツが1人はいるもんだ…。
その足音は、すたすたと歩くのとは違う。……一歩一歩がゆっくりで、非常に慎重に歩いているのがわかった。…息も殺しているように感じる。 ……だから私はもう完全に想像がついていた。 このトイレに出るという妖怪、「めそめそさん」の噂を確かめるため、誰かが度胸試しに1人、わざわざこの時間にやってきたのだ。 …………となれば、この生徒は、……このトイレに入ってくる?
私と毬枝の死体は、トイレの個室の中にあり、扉を閉めている。 ……つまり、トイレに入れば、個室内に誰かがいることは一目で看破されてしまうのだ。
…まずいまずいまずい……。 毬枝の死体を万が一にも見られてはならないし、私がこの時間にここにいたことを知られるのもまずい……。 どうするどうする、どうするどうする……。
全身から脂汗が噴出す。 ……毬枝を殺した時には、汗ひとつかかなかった冷血漢気取りの私が、……度胸試しの生徒が1人紛れ込んできただけで、これだけ狼狽できるものなのか…! そうしてうろたえている間にも足音は着実に近付き、今やそこまで迫ってきていた。
……ぺた、…ぺた。……………………ぺた…。 その足音は、トイレの入り口で一度止まり、…この個室の扉が閉まっていることを知って、息を呑む。
そして、……閉まっているように見えるだけで実は無人なんだろう、どうせ…、という想像を確認するために、…そろり、そろりと、トイレ内に踏み入ってくる…!!
そろり、……そろり……! どうしようどうしよう、どうしようどうしよう…!!!
そろりそろり、そろりそろり! 頼む、そのまま引き返してくれ、頼む、そのまま引き返してくれ…!! そろりそろり、そろりそろり!!!「………………………ッ!!!」
1秒が1時間にも感じられ、粘つきながら時間が凍える…。 そして、……ノック…!!
……コンコンコン……。
は、…はぁッ!! た、叩かれた…、ノックされた…!! ノックは中に人がいるかどうかの確認だ。こ、ここで中にいると返事をしなかったら、無人なのになぜ閉まってるのかと、よじ登って中を覗いてくるかもしれない。あるいはもっと簡単に、しゃがみこんで、扉の下の隙間を覗き込んでくるかもしれない。どちらにしたって、1人以上の人間がいるという異常事態を理解してしまうッ!!!
じゃあ、ノックし返さないと…! ノック、…ノック…!! でもそうしたら今度は、中に誰がいたのかなんて興味を持つんじゃないか! それはまずいまずいまずい!! 姿を見られてはならない、見せてはならない!!
ああくそああくそああくそくそくそッ!! 扉越しでなかったら、この度胸試しの間抜け生徒も、毬枝の後を追わせて沈黙させてやるってのにッ!!! でも2人はまずい、1人でもヤバイかもしれないのに、2人も殺したら今度こそ隠しきれる自信がないッ、こいつの友達が校舎の外で帰りを待ってるかもしれないじゃないか、ぅううぅあああぁあぁぁああぁ!!!
……口に出すこともできない叫びが胸の内側を満たし、それは頭の中を空っぽにさせ、真っ白な霧と瞬くような花火を感じさせた……。 自分が自分でなくなったような、…現実逃避感。 そして、もうどうにでもなれという、無責任さが宿った時、…自分でも想像しなかった、大胆な言葉が私の口から零れた…。
“………………めそめそ、…………めそめそ……。” ……それは「めそめそさん」の口上。 扉の向こうから、低学年の少女の、ひッという息を呑むにも似た短い悲鳴が確かに感じられた。「…………めそめそ、…めそめそ。………そこの人、どうか哀れな私の話を聞いてください…。」 哀れっぽく。…そして、めそめそさんだったら、…いや、毬枝だったらそう言うだろうとイメージしながら、それを口にする。……裏声で、か細く。 扉の向こうが沈黙している…。 こ、…こんな三文芝居じゃやはりどうにもならないのか……?! そんな焦りが滲み出した頃、沈黙が扉の向こうから破られた。
「で、
……出たぁあああぁああぁああぁぁあぁぁ!!!」
それは間違いなく低学年女子の悲鳴。…出た、という言葉は普通、オバケに遭遇した時に言うものだ。 ……つまり、その度胸試しの少女は「めそめそさん」に遭遇した、と信じたのだ。
やって来た時の慎重さが信じられなくなるくらいに、どたばたと騒がしい足音が遠くへ去っていく。
は、………はははははは、…はははは! やったぞ、…やったッ!
馬鹿笑いに全身が脱力しそうになった瞬間、撃退を確信した瞬間に、私の体は電光石火のように動いた。 毬枝の体を担ぎ上げ、このトイレから飛び出す。このトイレにもうすぐ大勢が駆けつけるかもしれないからだ。
度胸試しは1人でやるものじゃない。どうせ、ジャンケンで負けて、罰ゲームとしてここへ来させられたに決まってるのだ。 なら、出たと聞かされた仲間たちは、一斉にここへ駆けつけてくるだろう。
毬枝を担ぎながら、私は個室を振り返る。……深夜タクシーを降りた時、忘れ物をしていないか確認するように。 大丈夫。……ない。 ……何の痕跡もないはずだ。 なら急げ! ここはいつまでも安全じゃない!!
トイレの手前の空き教室の1つに飛び込み、毬枝の体を教壇の影に隠すと、自分も息を潜めて様子を伺った。 ……予想通り、4人くらいの女子が騒々しく騒ぎながら廊下を駆け抜けていった。
……ここでひょっこり現れて、廊下を走るなと彼女らを叱って追い出すか? いや、無理にそんなことをする必要はない…。今はここで息を潜めていた方が得策…!
やがて、4人の賑やかな女子たちは、確かに見たとか見てないとか、そんなことを口々に言い合いながら、興奮した様子で戻っていく。 ……それでもしばらく息を潜めた後、完全に旧校舎に静寂が戻ったことを確認し、…私はようやく安堵の息を漏らすのだった…。
辺りはもう、だいぶ暗くなり始めていた。 私は、使われていない倉庫に一時的に毬枝の体を隠すと、職員室に戻って残務を片付けるふりをしながら夜を待った。
この学校は、近年から機械警備を取り入れたため、宿直はいない。…だから深夜を待てば、確実に無人になった。 機械警備などというと、まるで監視カメラなどで厳重に警戒しているような印象を受けるが、そこまで大げさなものではない。 校内全ての扉や窓に、開放していないことを確認する器具が取り付けられているだけだ。 しかもそれは、最後の職員がセットした後にしか働かない。 だからつまり、最後まで残れば、校内は完全に無人の隙だらけになるのだ。
そして、………校内が完全に無人になった深夜の暗闇の中、私は毬枝の体を倉庫から引っ張り出し、……プレハブ校舎にあるトイレ小屋裏にやってきた。 このトイレはかなり古い汲み取り式で、巨大な便槽が地下に埋まっている。 本来は、下水道化すべきなのだが、このプレハブを作った当時はあくまで仮の校舎で、すぐに取り壊すつもりでいたらしい。 それが、取り壊されずいつまでも使われ続けているため、水洗便所と汲み取り式便所が同時に存在するという歪な状況になってしまっているのだ。 時折、バキュームカーが汲み取りに来るだけで、中身を完全に空っぽにしているわけじゃない。ましてや、その底を覗き込むわけでもない。 ……だから、この便槽の中に放り込んでしまえば……、誰にもわかるはずはない。
……いつかはバレるかもしれないが、それは遺体が白骨化するほど未来の話だろう。 便槽の中で糞尿に塗れてウジに食われ、白骨化した死体に何の痕跡も見つけられるものか。 ……遊んでる時に誤って落ちたと思うのが精一杯さ。
便槽の汲み取り口の蓋を開ける。 ……むわっとした悪臭の熱気がこみ上げ、一瞬たじろぐ。 それから、改めて懐中電灯で毬枝の体を照らし、不審な点がないことを確認した。 ……大丈夫だ。運んでくる途中で靴が脱げてしまって、校内のどこかに残っている…なんてことにはなっていない……。
その時、小さな違和感。 ……………………右腕の、袖のボタンは…? 毬枝の着ていた服は、袖に飾りボタンがついたものだった。 見れば、左腕にはちゃんとついているが、右腕にはついてなくて、手首がほんの少しはだけていた。
……どこかでボタンが落ちてしまっただろうか…。…いや、それとも、今日の初めからボタンはなかった…? ………たったひとつのボタンを探して校内を探し回るのは不可能だ。 私は、そんなことに悩むよりも、毬枝の体を一刻も早く放り込む方が大事だと気付き、躊躇なくそれを実行する。
深く、意外に広いらしい便槽内に反響して、ドポーンという音は、少しだけ不気味な彩りを添えた後、夜の虫の声に飲まれて消えていくのだった…。
便槽の蓋を元通り被せる。 ……大丈夫。何もわからない。誰にも見られてない。
そのまま早歩きで職員室に戻る。 ……職員室に目撃した教師がいて、自分に問い詰めて来る…という、最悪の想像で頭をいっぱいにしたが、そんなことはありえなかった。 職員室は静寂に満たされていて、針を刻む音がうるさい壁掛け時計の音以外に何もなかった…。
だって、自分以外の教師が全員、下校したことを確認してから毬枝を捨てに行ったのだから、それは当然のことなのだ。 ……………………。
「………ふふ、…………はははは? はっはっはっはっはっはっはっは!!」 笑う必要なんか何もなかったが、…面倒臭い片付けごとが全て終わったような爽快な気分になり、意識せず笑いがこみ上げるのを感じた。 でも、笑いにまで至ったのは、それだけではないようだった。
……そう。あのトイレでの咄嗟の機転。 度胸試しの女子生徒がノックしてきた時、……万事休すだと思った。 それを、……ちょっと小耳に挟んだ「めそめそさん」のふりをして、見事にやり過ごしたのだ。
あの女子は、明日から人に会う毎に自分は「めそめそさん」に会ったと喧伝するだろう。 ……そして、この学校には確かに「めそめそさん」という妖怪がいるという、学校伝説に育っていく。 ……それはつまり、……私が「めそめそさん」だったということだ。
そう。何の証拠も残さず、殺人を遂行し、それを隠し切った。 ……それは、ヒエラルキーのピラミッドで、自分が人間より上位に立ったことすら意味する。
つまり、……私は殺人という儀式を経て、今、人間というステージを超えたのだ…。 そして得たのが「めそめそさん」の呼び名。
そう、……自分は人間を超えた。「めそめそさん」になった。妖怪になった。人を超え、人を殺め、人に恐れられる存在になったのだ。 そして、私が残した「めそめそさん」の怪談は、例え私の身が滅んだとしても、この学校の生徒たちによって、いつまでもいつまでも語り継がれて生き残っていくことになる……。
……それはまるで、人間として生まれたからには絶対に逃れぬことができぬ宿命である寿命すらも超越したということ……。
「はは、…はははははは! 私が『めそめそさん』だぞ…! 生徒諸君、私を怖がれ、恐れろ、そして語り継げ! あはは、あはははははははは! こいつは素敵だな、あははははははは! 毬枝、お前は生きてた時には、俺の退屈を紛らすためにその身を捧げ、最後には命まで捧げて、私を人間から卒業させてくれたんだなぁ。あはははははははは! 本当に愉快なヤツだったよ…、あっはははははははは! はーっはっはっはっはっはっは!!」
………めそめそ……………めそめそ…………。 聞く者があれば、胸を掻き毟らずにはいられないような悲しい泣き声が、毬枝の死体の捨てられたトイレ小屋の裏から聞こえてくる……。 もちろん、それは聞く者のない悲しみの声。 ……いや、聞く者がいない時にしか許されない声だった。
毬枝の体は今や、永遠に光が差し込むこともない不浄の便槽の中。 ……だが、その魂は体を離れ、便槽の蓋の脇にしゃがみ込んでいた。 今の毬枝を悲しませているものは何なのか。…当の本人にも理解できなかったに違いない。 彼女を悲しませているもの。 希望を持って生を与えられたはずなのに、このような悲しい最期を与えられてしまったこと。 自分が誰にも知られることなく殺されてしまい、このような不浄の場所に死体を捨てられ、自分の死すら伝えられぬこと。 ……そして、望まぬ行為だったとはいえ、従ってきた数々の行為に対する担任の気持ちが、後悔でもなければ感謝でもなく、…ただただ嘲りだったこと。 それらがそれぞれに毬枝を苛み、…彼女に未来永劫、終わらぬ悲しみを与え続けるのだった……。
ふと、虫たちの声が泣き止み、誰かがやって来たことを教えてくれた。 それが、今の自分と同じ、人ならざる存在であることを、すでに人ならざる存在である感性で感じた毬枝は、顔を上げた。
……それは、彼岸花だった。 元々感情を感じさせない表情の彼女だったが、…今の彼女は本当の意味で感情のない表情を浮かべていた。 どんな感情も今の毬枝を傷つけたかもしれないことを考えると、彼岸花の冷たささえ感じさせるその無表情は、ある意味、毬枝にとって一番やさしいものだったかもしれない。 ……毬枝にはまだ理解できないだろうが、死者にとって一番やさしい、人ならざる存在らしい礼儀だったのかもしれない。
「……ご愁傷様ね。…泣くことで悲しみが癒されるなら、はばかることなく泣くといい。…決して誰の耳にも届かぬ泣き声であることを知りながらね。」
「…………やっぱり、…そうなんですね。………幽霊の声が聞こえたりしちゃ、…おかしいですよね……。」
……彼岸花の言葉は鋭利だったかもしれない。…でも、幽霊の理を知らぬ毬枝にとって、それは必要な言葉だったかもしれないし、…それはやはり、毬枝へのやさしさになったかもしれない。
泣き声とは、誰かに助けを求めるサインだ。…だから、誰かに受け取ってもらえるまで、人は泣き続ける。 その声が誰にも届かぬ幽霊であっても、それに気付かず、いつまでもいつまでも永遠に泣き続ける。 ……そしていつしか、泣くために泣く霊と成り果てて、ただただ生者に泣き声を聞かせたいだけのみすぼらしい霊と成り果てる…。
そんな存在に成り果てることの悲しさを知っているから。彼岸花は毬枝にとって、今は辛い言葉になることを知っていながら、“聞く耳を持っている内に”それを伝える…。
「………彼岸花さん。…私、これで『めそめそさん』になれるんですよね…?」
「彼岸花で結構よ、毬枝。」 彼岸花はそこで言葉を区切ると、しばし沈黙を守った。
その沈黙に、毬枝は何か嫌な予感を感じる。 ……『めそめそさん』にしてくれるなら、躊躇せず、そうだと言ってくれればいいのだ。…なのに、それを口にしないのだから。
「………私のことを嘘吐きだと罵る前に聞いて頂戴。毬枝を『めそめそさん』に推薦したのは本当。クラスのみんなも学級会でそれを承認してくれた。たったひとつの条件を付してね。……その条件はその時点では問題にならなかったからよかったのだけれど…。………今になって、その条件が引っかかり出したの。」
「……条件って、何ですか、彼岸花さん。」
「………『めそめそさん』になりたいと希望する者が1人だった時に限る、よ。」
「……え………?」 毬枝は、何を言われてるのかわからず、ぽかんと口を開けるしかなかった。 ……だが、言われていることが何であれ、それが今の自分にとって絶望的な内容であることに変わりはない…。その表情が、悲しみに彩られていく。
「『めそめそさん』という学校妖怪の席が認められた時、この席に付きたいと願ったのは毬枝1人だった。だから私はあなたのところへ訪れ、その意思はあるのかと確認を取った。そしてあなたにその意思があり、且つあなた以外にその意思を持つ者がいなかったため、その時点ではあなたが『めそめそさん』になるのは問題ないことだった。………ところが、最後の最後のこの瞬間に、…問題が起きたの。」
「も、…問題って何ですか……。」
「あなたの他にも、『めそめそさん』になりたいと希望する者が現れてしまったの。」
「……え……。」
「あなたはここで泣くことに精一杯だったから声が聞こえなかったのね。……あの男が、あれだけ大声で邪悪に笑うものだから、その声は私たちのクラスにまで届いてしまった。………それはとても皮肉な運命。あなたの悲しみをより深めるだろうけれども、真実だからあなたに話すわ。……あなたを殺した男、金森もね、『めそめそさん』になると宣言してしまったの。」
「……ど、………どうして……、先生が…!!」
「………あなたを殺した直後。そこへ訪れた生徒を追い払うため、金森は咄嗟に『めそめそさん』のふりをしたの。…それが綺麗にうまくいってね。彼はそれに大層機嫌を良くし、自分こそが『めそめそさん』であると、ついさっき、声高らかに宣言してしまったのよ。…あんなにも邪悪な声だったからあなたの耳にも届いたかと思ってたけど、あなたは泣くのに忙しかったから、耳に入らなかったのね……。」
…………毬枝はしばらくの間、呆然とするしかなかった。 あの男に、生ある時間を穢された。そして命まで奪われ、尊厳を嘲笑われた。 そして、……それだけでなく、死後の存在まで、あの男に奪われなければならないのか。 ……死しても、…あの男の支配から自分は抜け出すことができないのか…………。
「そ、………そんな、…………そんな………ううぅうぅうぅ…!」 毬枝はしばしの間、再び面を伏せて悲しみの涙を零し続けるしかなかった…。
「……まだ悲観することはないわ、毬枝。『めそめそさん』の候補が、あなたと金森の2人になっただけよ。…『めそめそさん』という学校妖怪に序列の第8位を与えることはすでに決まっている。だから今さら空席にはできない。あなたか金森のどちらかが必ずその席につけるわ。二分の一の確率で必ずね。」「………それはどうやって、…いつ決まるんですか……」
「学級会での投票でよ。……学級会に投票できるのは私たち7人。奇数だから必ず決まる。……私はあなたと縁があったからね、あなたに投票するつもりだけれど。でも、ウチのクラスには性質が悪いのも多いわ。金森みたいな、邪悪なヤツにこそ第8位は相応しいって思ってるクラスメートもいるみたい。なるほど、一理あるわね、くすくすくすくす……。」
「……そんな………………。…じゃあもし、……その投票に敗れたら、…私はどうなるんですか。」
「うふふふふふふふ……。学校ほど未熟な魂がたくさん集まるところはない。そんな魂からお零れを頂戴しようと、日本中で学校ほど魑魅魍魎が集まるところはない。まだあなたには知覚できないだろうけど、近隣でも最大のマンモス校であるこの学校は、この辺りじゃちょいと知られた妖怪銀座。」
「……あなたみたいな、矜持も克己もないくせにいやに瑞々しい魂にちょっかいを出さずにはいられない、性質の悪い連中が、あっという間に襲い掛かって骨の髄までしゃぶり尽くしてしまうでしょうね。……あなたには見えない? あの校舎の影や、向こうの茂み。……あなたの瑞々しい泣き声に引かれて、欲望をむき出しにした性質の悪い連中が群れを成してうかがってるわ。」
毬枝はぎょっとして、彼岸花の言う方を見るが、夜の闇に紛れる何かを見つけることはできなかった。 ……だが、見えなくても、その邪悪な存在は実在するに違いないのだ。
「今はまだ大丈夫。あなたの魂はまだ、この彼岸花が預かってる。……学校の敷地内で、その学校を預かる学校妖怪の七席に刃向かおうなんてお馬鹿さんはいないわ。ましてや私、…残酷なことで知られてるしね。くすくすくすくす……。」
彼岸花はお世辞にも頼もしそうとは呼べない不気味な表情でくすくすと笑う。 それは毬枝を大いに怯えさせたが、……毬枝には見えない、夜の帳に潜み毬枝を値踏みする邪悪な連中をそれ以上に怯えさせてもいた。
「あなたと金森のどちらが『めそめそさん』に相応しいか。それが決まるまで、あなたの安全は私が保証するわ。………その後は保証しないけれどね? 大丈夫よ。あの連中に食い尽くされるのも、あるいは死神がやって来て、冥府で正しい裁きが受けられるよう取り計らってくれるのも、どちらにせよ一瞬のことよ。……あなたがあなたでありたいと思う弱々しい気持ちなど、一瞬で奪ってくれるわ。どちらにせよね。」
「……………私がこうしていられるのは、彼岸花さんが守ってくれる今だけ、…ということなんですね。」
「そういうことよ。あとこれ、…言っていいのかわからないんだけど。」
「………なんですか…?」 彼岸花は、冷酷そうににやりと笑うと、毬枝の耳元に唇を寄せ、……耳たぶを舐め取るようにそれを言う。
「………あなたが美味しそうだと思ってるのは、
そこいらの連中だけじゃなくて、……私もだってことよ。あなたが『めそめそさん』じゃないってことになったら、…連中が食らい付く前に、………私が食べてしまおうと思ってるんだから。」
……その言葉にはわずかほどの冗談もない。 群れて互いの権利を尊重しあうのは人の世の理だ。 人ならざる者の世界では全ては序列。全ては弱肉強食。 ……そして、彼岸花がそれを望むなら、今この瞬間にもそれを実行してしまえるという現実が、言葉で伝えられているのだ……。
死を乗り越えればもう何も恐れることがないというのは、人間の無知だ。 死してなお、この世界にはさらに恐れるべき何かが満ちている…。 そして毬枝は、死というあまりに苛烈な壁を一度潜り、それをも上回る過酷な終末が存在している事実に、さらなる恐怖を感じずにはいられなかった……。 ……でも、…毬枝はその恐れを押し留め、やさしい声で言った。
「……もしそういうことになって、彼岸花さんがそれを望むなら、……そういうことでいいと思います。」
「…………………もう観念…?」
「……違います。お礼、みたいなものです。……だって今の私、彼岸花さんが守ってくれるから、ここにこうしていられるんですよね…? だから、今こうして自分の死のために涙を流せる時間を下さる彼岸花さんに、私は感謝しないといけないって、……そう思ったんです。」
「………………………………。」 毬枝にとって、彼岸花が自分に近付いてきた目的が、自分を食い殺そうというものであったとしても。 ……それでも、自分を仲間に迎えたいと掛けてくれた言葉の温かさは感謝に値するものだった。 あの金森が、いじめっ子から庇う対価として不道徳な行為を要求してきた時も、決して自分を友人とも仲間とも言ってはくれなかったから。 ……毬枝が口に出さなくても、その感情を彼岸花は読み取る。
「…………ふ。」 彼岸花は笑うが、その表情は毬枝からは見えない。
「……そんなだから、あなたは美味しそうな魂になっちゃうんだわ。……あなたにはもう少し、学校妖怪に相応しい残忍さや邪悪さが必要よ。」
「……大丈夫です。………こんな私でも、…仕返ししてやりたいって、…その程度の邪悪さは持ってますから。」
「……その仕返しも、『めそめそさん』になれなかったらできないんだから、大変ね? …復讐するのすら、あの男に邪魔されなくちゃならないんだからね…?」
「………………………ううぅうぅぅぅ…!!」 毬枝は再び涙する……。 死してなお逃れられぬあの男の影に、今は悲しさと悔しさと怒りと、……様々な感情をごちゃまぜにすることしかできなかった……。
その苦悩の泣き声も、夜の帳に飲み込まれ、決して誰にも届くことはない……。 毬枝や学校妖怪たちの思惑は、生者である金森にとって、まったく関わりのないことだった。 ……だが、だからといって、毬枝の死から金森が完全に縁が切れるわけもない。
森谷毬枝が自宅に帰らないという話はすぐに大騒ぎになった。 事故か、それとも事件に巻き込まれたのか。 普段からひとりぼっちで友達もいない毬枝の最後の目撃は当日の学校だけ。下校中に何かあったのではないかと憶測するのが精一杯らしかった。 警察が、当日の毬枝の服装を書いた、情報求むのチラシをあちこちの掲示板に貼り付けている。 それを目にせずには過ごせないほどに、町のあちこちに貼り付けていた。 警察も、担任である金森に話を聞きに来た。 下校した後のことは知らないと話すと、勝手に納得して去って行った。
職員会議でも緊急議題となり、愉快犯による第二の事件を警戒しようと、当面の間、集団下校や保護者による送り迎えをしようという話になった。 ……初め、それらの話題は金森の精神を少なからず追い詰めたが、一日二日と経つにつれ、それは逆に自信となっていった。 ……なぜなら、毬枝の死体は未だ見つからず、警察の捜査も下校中に的を絞られ、自分が捜査線から完全に零れていることを実感し始めたからだ。
クラスの子に、毬枝はどこに消えたのだろうと聞かれ、金森は冗談だと断りながらも言ってやった。
「うーん、……『めそめそさん』の祟り、かなぁ…。……あぁ、いやいや! 先生がこんなこと言ったなんて内緒だよ?」
……予想通り、この話は生徒に大層ウケた。 『めそめそさん』という、最近流行りの学校妖怪に犠牲者のオマケまでついたのだ。 校内では『めそめそさん』の噂が横行し、新しい学校怪談としてすでに定着し始めているようだった。
それを知り、金森はますますに自分が『めそめそさん』なのだという確信を強めていく……。 そんなある日のことだった。
放課後に、職員室へ向かった時、何もない平らな廊下なのに、……突然、転倒してしまった。 転んだ拍子に、肘を何かに引っ掛けてしまったらしい。皮が破れて血を滲ませていた。 大した傷ではないが、出血でワイシャツを汚すわけにはいかず、ポケットティッシュで肘を押さえた。「おや、金森先生、大丈夫ですか。お怪我でも……。」 その様子をたまたま見ていた教頭が声を掛けてくる。
「あぁ、これはお恥ずかしいところをお見せしました。転んだ拍子にどこかにぶつけてしまったようで。……多分、生徒が絞らない雑巾で拭いた水溜りか何かで足を滑らせてしまったのでしょう。」 とは言ったものの、そんなことで足を滑らせるはずがないと金森自身が一番理解していた。 こうして言い繕いながら廊下を見て、自分は何に足を躓いたのかと訝しがるしかなかった。「……先生、だいぶ出血がひどいようですね。ティッシュに滲み出してきていますよ。」
「……本当だ。困ったな、保健室へ行って止血をしてもらった方が良さそうですね。」
「そうなさるといい。あ、先生~。金森先生が転ばれて怪我をしたようです。見てあげてくれませんか。」 都合よく、廊下の向こうに保健室の先生の姿があった。
「あらあら、大丈夫ですか、その肘。」
怪我自体は大したことないのだが、血で着衣を汚したくない。
金森はそう思い、大人しく保健室に向かうことにした。
消毒薬の臭いに満ちた保健室で、こうして消毒薬の脱脂綿の痛みを感じていると、自分の小学生時代を思い出すようで懐かしい。 人より優れたものが何一つ見出せず、いつも周囲に見下されているように感じていたあの頃。 見下されたくない、見下し返してやりたいと、周囲に対する攻撃性を蓄積させていったあの頃。 ……私は毬枝を見下すことでようやくそのコンプレックスから解放されたように感じた。 殺人を肯定したいとは思わない。 ……でも、この禊によってコンプレックスから解放されなかったなら、自分は生涯、どれほど惨めな思いで生きていかなければならなかったのか。
それを思えば、どうせ生き続けたって、自分以外の誰かの慰みにされて生涯を終えただろう毬枝の存在を、自分が活かし、新しい境地に目覚めたのは当然のことと思えた。 食物連鎖の上下関係のよう。 自分は食う側だった。毬枝は食われる側だった。…それだけのことなのだ。
私が食わなければ、将来、別の誰かが食っていた。 なら、早い内に私が食ってやって、人生をリセットさせてやる方が慈悲深いというものだ。 もっとも、次の人生でも食われる側に違いないだろうが。……つくづく救えないヤツさ。
そんな妄想に浸っている間に少し大きめの絆創膏を貼ってもらい、治療を終えた。 礼を述べ、立ち上がった時。コツ、コツコツ、コツン…、という小さな連続する音を耳にした。
「どうしましたか?」
「……いえ、今、何か音が。何か落ちて転がるような。」 金森は床の上に小さな白いものが落ちているのを見つけ、拾い上げた。
「…………………?」 それはプラスチックか何かでできた、小さなボタンみたいなものだった。 ボタンと言っても、直径は数ミリもなく、何の部品なのか理解できなかった。
だが、その何かが落ちてきただろうと思う方向…、薬品棚の上を見た時、それが何なのかを理解した。
それは、この保健室にあるのは何とも不釣合いな、……西洋人形だった。 経年劣化により、くたびれた様子を隠せないが、決して安っぽいものではなかったに違いない。 さっき拾い上げた何かの形状とその人形を何度も見比べ、おそらく、この人形の洋服のボタンに違いないと察する。
「多分、この人形のボタンが飛んだのでしょう。」
「おやおや、そうですか。それはあとで縫い付けておかないといけませんね。何しろ、この子はこの保健室の主だそうですから。」
「ヌシ? この可愛いお人形がですか?」 金森は背伸びをして、薬品棚の上に座って保健室を見下ろしているその人形を抱き下ろした。 ……その人形には、西洋人形独特の、どことなく冷たい雰囲気があり、金森は社交辞令として可愛いと言ったが、内心は何て可愛げのない不気味な人形だろうと思った。
「えぇ、私も前任の先生から聞いたんですがね。このお人形、その先生が来られるずっと前からここにあって、こうして保健室を見守ってるんだそうなんですよ。」
「そんな馬鹿な。生徒の誰かの忘れ物じゃないんですか?」
「そんな立派なお人形を持ってきて、忘れちゃう生徒がいるとも思えませんがね。……そうそう、そのお人形は呪われた人形とか言って、生徒たちには怖がられてるんだそうですよ。」
「ははは、学校の七不思議のひとつですか? そう言えば、保健室の人形が夜中に踊りだす、みたいなことを生徒の誰かに聞いたような。そうか、この人形のことだったんですね。」
「昔、この保健室で死んだ女の子が持っていた人形が、魂が宿って妖怪になったんだとか何とか。ふふふ、そういう話ってどこの学校に行っても多いですよね。そうそう、その人形、誰が名付けたのか知りませんが、ちゃんと名前も持ってるんですよ。……彼岸花って名前だそうで。」
彼岸花。
「……ふぅむ。あまり縁起のいい名前ではないですね。なるほど、この不気味な人形にはぴったりかもしれない。……しかし、そんな人形をいつまでも飾っていると、生徒に怖がられていけないのでは?」
「それが、その人形を捨てようとすると祟りがあるって話なんですよ。ふふ、祟りを信じるわけじゃありませんけど、ずっとずっとこの保健室で生徒たちを見守ってきた主なら、蔑ろにしちゃ悪いと思いましてね。そこに座ってもらって、ここにやってくる生徒たちの怪我に、悪いのが入り込んで膿んだりしないように、見守ってもらってるんです。」
「……………そうですか。しかしこのボタン、どこの部分のものでしょうね。」
「あぁ、ここですね。あとで縫っておきましょう。ほら、右腕の袖のボタンですね。」 右腕の、袖の、ボタン……?
その何気ない単語が、金森の、忘れたくてもなかなか忘れられない、記憶のゴミ箱の中をちりちりと刺激する……。 そう。…あの毬枝の死体を捨てた夜の心残り。違和感。 毬枝の死体を捨てる直前、何かないかと死体を照らした時、……毬枝の右袖のボタンが千切れているのを確かに見たのだ。
あの夜はある種の興奮状態にあった。だから、ボタンひとつくらいどうってことないと無視した。……でも、だからといって拭いきれない違和感も残したのだ。 その、まるで靴下の中に小さな小石でも紛れ込んだような感覚が、ぶわっと脳裏に蘇る……。
……この人形から千切れたボタンが、右袖以外だったなら何も気にしなかった。 なのに、よりにもよって、右袖のボタン。 ……毬枝の服から千切れたのと同じ、右袖のボタン……!
その時、金森は彼岸花という名のつけられた不気味な西洋人形に嘲笑われたような気がした。
“馬鹿な男ね。この世に蒸発するものは2つしかない。
何かわかる?” え…? な、何の話だ……? 人形が自分に語り掛けるはずなどないという先入観が、その問いを霞ませる。
“蒸発するものは。……水と感謝の心、この2つだけよ。
くすくすくすくす……。”
……あぁ、なるほど、それはよくできてる皮肉だなと笑う。
…だが、すぐにその笑いが凍る言葉を人形は続けた。
“あなたが探してるのは毬枝の右袖のボタンなの? そのボタンは何でできている? 水? 感謝の心?” ……水や心でボタンができてるわけがない。 高級品なら貝だろうが、安ければせいぜいプラスチックに違いない……。
“そう。水でも心でもない材質でできてるのね。
なら、蒸発なんてするわけがない。溶けもしないし蒸発もしない。……なら、まだ落とした場所に残っていることになるわね。……落とした場所に、いつまでも。誰かに拾われるまで、…ずぅっとね? くすくすくすくすくすくすくすくす…………………。”
その言葉の意味するところがひりひりとした感触で伝わってくる……。 都合の悪いことを、人間はすぐに忘れたがる。……今日まで私は、あの毬枝のボタンの違和感を、……忘れていた。 ……だが、私がいかに忘れようとも、ボタン自体はなくならない。 それは必ず落ちた場所に今も残り続けていて、……そして、誰かが拾ってくれるのを今も待ち続けている…!
……そう。あの右袖のなくなったボタンのことを忘れてはいけなかったのだ。 最初からボタンが千切れていたわけはない。 ガサツな男子なら、ボタンが1つくらい千切れた服でもまったく気にしないだろう。
だが、女子だぞ! ボタンが取れたら必ず付ける。 ……毬枝も几帳面なタイプだった。右袖のボタンが千切れたまま、日々の生活をしていたわけがない。 だから、あのボタンは間違いなく、あの日に千切れたのだ…!
「……………………………………………………。」
「金森先生。どうかなさいまして?」
「……あ、いえ。ありがとうございました。ちょっと用事を思い出したところです。すみません、失礼します……。」
……もう私の心には、根拠なき安心感などなかった。 このままぼんやりとしていれば、いつかあのボタンを誰かが見つける。 毬枝が失踪した日の服について、警察はとっくに知っているから、万一、それが警察の手に渡れば、毬枝の服の一部だとわかるはずだ。 ……それほどまでに危機的状況を放置して、私は何をのうのうとしていたのか……。
なら、あのボタンはどこに落ちた…? ……………………………………。 ……絞め殺した、あの場所。…旧校舎のトイレの、個室の中。
いや、でも、あそこを出る時、痕跡が残っていないかどうか確かに見たはず…! でもそんなのは焦る心でちらりと見ただけのこと。落ちた一粒のボタンを見逃さないほどに慎重だったとは思えない…。
……確信する。 あそこだ。……あそこにあるのだ。 ……私は、誰にも見られずに旧校舎に入るため、完全にひと気がなくなる時間まで、逸る心を抑えて待つしかできなかった……。
保健室には、まだ保健の先生が残り今日の事務の片づけをしていた。 ……その時、少女の笑い声を聞いた気がした。
まだ校内に生徒が残っているのだろうかと思い、振り返ると、……薬品棚の上にちょこんと座った西洋人形の姿が目に入った。 もちろん「彼岸花」が笑うわけもない。お人形なのだから。 少し疲れているかもしれない…。今日は家に帰ったら早めに床に入ろう。そう思うのだった。
「……くすくすくすくすくす。どっちが『めそめそさん』に相応しいか、見物ね。投票まで待つなんて面倒臭い。……当事者同士で決めあうのが正しいとは思わない?」
「………やはり疲れてるのかな。今日はこれくらいにして帰るか……。」
彼岸花は、これから始まることを想像しながら、くすくすと笑う。 無論、その声は保健の先生の耳には届くわけもなかった。
「さぁ……。毬枝も金森も。どちらが相応しいか見せて頂戴。ウチのクラスのみんなも、投票より面白いかもしれないって期待してるんだから。くすくすくすくす…!」
「金森先生はまだ残られますか。
明日に響きますよ。」
「ありがとうございます、教頭先生。もう少しで区切りがつきますので、もう少しだけ残らせてください。」「わかりました。でも、ほどほどで引き上げてくださいよ。あまり残業時間が付き過ぎると、組合にも事務局にも文句を言われますので。」
「はははははは……。」「じゃあ、申し訳ございません。私もこれで今日は失礼させていただきます。金森先生が最後になると思いますので、セキュリティのセットをよろしくお願いします。あと、23時を超えるようでしたら、警備会社に連絡しないと確認に来てしまいます。くれぐれも注意してくださいよ。」
「えぇえぇ、心得ています。」 ……それは忘れてた。……あのトイレを調べるのにそんな時間を掛けるつもりはないが、そこに警備会社が来て鉢合わせじゃ、いろいろ都合が悪かったところだ……。
金森は、今夜はこれまで以上に慎重だった。…毬枝を殺した日よりも慎重なくらいに。 教頭の姿が校庭を横断していくのを見届けてから、教頭の忠告通り、警備会社に残業で遅くなる旨の連絡を入れる。 ……これで完璧だ。これで今度こそ、この深夜の学校には自分以外に誰もいないし、誰も訪れたりしない……。
……そして、職員室を出て旧校舎に向かう前に、自らの気配を殺し、校内に誰かが潜んでいないかをうかがった。 もちろん、耳に入ってくる音は何もない。 校舎に染み入ってくる夜の虫の声だけ。 ……自分が呼吸を許せば、それはまるで嵐のようにうるさく聞こえるくらいだった。
窓の外は真っ暗闇。 ……内側に明かりが灯っているから、廊下のガラスには外の暗闇でなく、廊下の景色が鏡のように反射して映し出されているだけだった。 だからすぐそこを見れば、……自分の姿が映っているのがわかる。 この広大な校舎の中に、自分がひとりきり。 昼間の学校は、たくさんの生徒と教師で賑わい、間違いなくひとつの社会を形成している。 しかもそれは、世間とは切り離された別の世界で、学校という別次元を構成しているとまで言えるだろう。 その次元の中に、……今、自分がひとりしかいない。
社会とは人が複数いた時に構成されるものだ。…それが複数でなく、単数になったなら、…それは社会ではない。 つまり、今この瞬間、この学校という次元は、社会というモラルから解放され、自分だけの世界になったのだ。 昼間の学校で廊下を走れば、生徒に走ってはいけないと囃され、教頭に見つかれば、生徒の模範にならないと叱られもするだろう。 廊下は走ってはいけないという、社会のルールがあるからだ。
だが、この深夜の学校は社会から解放されている。 つまり、社会の作ったルールが及ばない、……ここにいる自分だけの世界なのだ。
だから、こうして思い切り廊下を疾走しても、誰にもはばかられることはない。 今この瞬間こそ、自分はこの世界の王であり、社会の構成要素の1つである人間などというちっぽけな存在をはるかに超越しているのだ。
そう思えば思うほど、早く毬枝のボタンを見つけなければならないという焦りが消えていき、自分はさっきまで、何てちっぽけな悩みに焦燥感を感じてきたのかと呆れたくなってしまう。 自分に角があるなら。自分に翼があるなら。今こそ思い切り伸ばしてやろう、広げてやろう! 最初は心の中でだけ笑っていたが、今のこの世界ではそれを声に出して笑っても、誰にもはばかられないのだと思い出し、とうとう金森は、心の底から、そしてあまりに邪悪な声で、げらげらと笑いながら旧校舎へ向かうのだった……。
だが、その悪魔的な自信は、旧校舎に一歩踏み入った瞬間に引き、…そして、凍りつくぐらいに冷酷なまでの慎重さに摩り替わった。……それもまた、悪魔的なまでに。
旧校舎に明かりをつければ、ひょっとすると近隣の住民に見られてしまうこともあるかもしれない。だから電気をつけず、懐中電灯の細い明かりだけを灯した。
真っ暗な世界を照らし出す弱々しい明かりが、この廊下の長さが、まるで地平線まで続いているかのような錯覚をさせる。 そして、内側より旧校舎の扉を閉め、念には念を入れて施錠までした。
これでこの世界は完全に切り取られた。 学校という世界から、さらに切り取られて隔絶されたのだ。 つまり、人の世から、二つ分も遠くに切り離された世界ということ。
“……これだけ人の世から遠ざかったなら、…人ならざる世の方が近くになってしまうかもね…? くすくすくすくすくす……。”
あの、ボタンの飛んだ保健室の人形の声がまた聞こえた気がした。 もちろん、人形がしゃべるわけなどないのだから、そんな馬鹿なことはあるわけもない。 ……でも、今の旧校舎の世界は、人形などしゃべるわけがない人の世よりも、二つも遠のいている。
ひょっとして、…今のこの旧校舎の世界では、人形ガオシャベリヲ始メテモ、問題ガナイ世界ナノデハ……?
「……はは、…は…。…馬鹿馬鹿しい……。」 笑い飛ばしたくて、あえて口に出すが、さっきまでの安っぽい威勢が嘘のように退いていることを実感するだけだった。
少年時代に心に染み付けられた、夜の学校は不気味な世界という根も葉もない思い込みが、こんな時にじわじわと効いてきたというのか……。 もう一度、馬鹿馬鹿しいと口にしようとしたが、……もう一度口にすると、今度は、胸の中に芽生えつつある、恐れという感情を呼び起こしかねないと思い、それをぐっと飲み込んだ……。
……だから、ますますに旧校舎はシンと静まり返り、自分が否定したその感情をますますに増幅させるのだった……。
どこかの水道管から水漏れでもしているのだろうか。 ……昼間には気付かなかった不気味な音が、トイレを満たしていた。 トイレ内の明かりをつけたいという欲求に駆られたが、それを必死に抑え、
か細い懐中電灯の明かりで照らし出す。 ……もし、……あの毬枝を殺した個室の扉が閉まっていて、………そこから、めそめそという、毬枝の泣き声が聞こえてきたら……。 昼間の世界でだったら、失笑してしまうような安っぽい怪談も、……今のこの世界では、コインを放ったら、時には裏面が上になるというのと同じくらいの確率で、実際に起こりかねない恐ろしさを秘めている……。 だからこそ、…あの個室を照らすのに、躊躇があった……。
「………………………くそ、…何をびびってんだ…。怖いのは毬枝の亡霊じゃないさ、落ちているボタンを警察に見つけられることの方じゃないか。……くだらないさ。…ふふ……。」 意味もなくにやりと笑って自分を奮い立たせながら、……あの個室に懐中電灯の明かりを向けた。
……………………………。 ……当然だ。 個室は閉まっていたりなどしなかった。 だから無論、中に誰かがいたりなどしないし、めそめそと泣き声をさせていることなどない……。 ……本当に…? それを確かめるために息を潜めようかとも思ったが、…それをすることは、せっかく一度は抑えた感情を再び呼び起こすことになりかねない。 だから、それをやることを堪え、とにかく、個室の中を検めることにする……。 個室の中には、和式の便器がある。 それを見た瞬間に、…ぞわぞわと毛を逆立てながら、あの日の記憶が蘇っていくのを感じた。
……かつてこの個室は、毬枝に数々の非道な行為を強いる背徳の場所だった。
その行為はあれほどにも長い日々に及んだにも関わらず、……たった一度の出来事である、毬枝を殺したあの日の記憶に完全に塗りつぶされていた。 ……だから、蘇る毬枝の姿は、淫らなそれではなく、……私が絞殺した後、着衣の乱れも気にせずにだらしなく崩れ落ちた、あの姿なのだ。 その姿を連想した時、心の奥底に、ほんの少しだけ後悔の念も浮かんだ。だが、すぐにその考えを捨てる。 そのような考えに囚われること自体が、自らの弱さを認めるように思ったからだ。
日々の糧食に対し、
いちいち元になった動物や植物に後悔などしていたら、パンの一枚も食べられやしないだろう。 ……今の自分にとって、毬枝はその程度の存在なのさ。
ヒエラルキーによる断固とした階級の違いがあり、私はそのピラミッドにおいて毬枝より上位にいた。……ただそれだけのことなのだ。 だからこれは当然の結果であり、何も私が後悔する必要などないのだ。
パンを食べて悲しみの涙を零す人間がいないように。
「……くだらない妄想だ。……そんなことより、ボタンがないか探さないと。」 言葉にして自らに言い聞かせないと、ますます妄想に囚われるような気がした。
……すでに、旧校舎という異次元の空気は、私を蝕み始めているのかもしれない。 早く、この異常な世界から抜け出ないと、何か取り返しの付かないことになると、子供の頃以来、すっかり錆び付いていた第六感が警告する……。 急いで、……だけれども執拗に丁寧に調べなくては……。
私は、トイレだということも気にせずに、床に這いつくばって、舐めるように調べた。 尿がこびり付いて変色し、永遠に汚臭を放ち続ける床の上に、……毬枝のボタンが落ちているのを見つけることはできなかった。
……なら、ここにはないのかと普通なら思うかもしれない。 でも、なぜか確信していた。根拠などない。……間違いなく、ボタンはここにあるのだ。ここに! 絶対…!
床ではないのか…? 死角があるのか…? ……毬枝を絞殺した時点では、個室は閉ざされていた。今は床に這いつくばるため、個室を開いている。 扉の内側に何か。…あるいは扉の裏側に何か。 ボタンがそんなところにあるわけがないと思いつつも、……あの日と同じ個室内を再現しないことには、その妄想も振り払えなかった。
なので一度立ち上がり、個室に入って扉を閉めた。鍵を掛けないと自然に開いてしまうため、鍵も掛ける。 さっそく閉めた扉の裏側を見るが、もちろんボタンが張り付いていたなどということはない……。 ではボタンはどこに……。 毬枝はここで死んだ。ここで殺した。そしてここに崩れ落ちた。その時にボタンが千切れたのだ。 見たわけじゃないのになぜかわかる。そうに違いないのだ…!
「………………………………!」 ……その時、懐中電灯の明かりが、ぎらりと反射した。 トイレットペーパーの上に被さっている銀色の、ペーパーホルダーだった。
生徒の乱暴な使用により、それはややひしゃげていたが、トイレットペーパーを都合のいい大きさに切る程度の役割は、まだ十分に果たせるようだった。 ……その、…ペーパーホルダーの上に、………白い雫のようなものが一粒。
「あった…。………………これだ……。」 それをそっと人差し指と親指で摘み上げる…。 間違いなかった。……これだ。このボタンだ…。これこそ、毬枝の右腕の袖から千切れ落ちたボタンなのだ……。
あの日、毬枝は息の根を止められ、脱力した瞬間に、私の両腕に抗っていたその手を、ストンと下に落とした。 その拍子に、ペーパーホルダーに袖のボタンが引っ掛かるかして千切れて、……ボタンがここに乗っかったのだ。
……ふふ、……ははははははは。…見つけた……見つけた……。 大声で笑いたくなるのを懸命に堪える。 まずはこのボタンを永遠に処理する方が先だった。 難しく考える必要はない。こうして便器に落として、流してしまえばいいだけなのだ。 水を流すと、私を少なからず恐怖させてきた静寂の世界が、その轟音で引き裂かれる。 そしてあっという間にボタンを飲み込み、永遠に地上からその姿を消し去ってしまった……。
あの人形の言う通り、ボタンは蒸発しないから、この世に残り続けはするだろう。 だが、下水道管に入り込んだ小さなボタン一粒など、絶対に探し出せるものか! 砂漠のビーズを探すより困難に決まってる! だから事実上、これで永遠に葬ったも同然なのだ。 つまりこれで、私の殺人の痕跡は完全に抹消された…!
……あの日から心の中に居座り続けていた違和感が、じわりと解けるのを感じる。
そして、静寂を引き裂いていた排水の轟音が少しずつ静まっていくに従い、私はさっき一度は達していた、人間を超えた者の境地を再び取り戻していく。
もう、笑いを抑えるのだけでも苦しい。今すぐこの場で大声で笑い出したい気分だった。 いや、笑おうじゃないか。
ここは人の世から2つも隔絶された別の世だ。そして自分しかいない、自分だけの世界じゃないか…! だからもう遠慮はしなかった。 自らの笑い声で静寂を切り裂き、再び自分が人間を超えた存在であることを顕示してやった。 最高の気分だった。これまでの人生で、これほど痛快に笑ったことなど一度もないだろう。
そうして、存分に笑いを楽しんだ後、笑いすぎによる軽い酸欠と腹痛を楽しみ、私は個室を出ることにした。 そして、個室の鍵に手を掛ける。
その時、…鍵に触れた指が、静電気で弾かれるような感覚を受けた。 いや、正しい言い方ではない。 触れた指が静電気に弾かれたのではなく、……鍵に触れた時、私が静電気で弾かれたような感覚を受けた、というのが正しい…。なぜなら………、
扉の向こうから、めそめそという少女の泣き声が聞こえてきたから……。 全身の毛穴が逆立つような感覚が、ものすごい勢いで足元から上って頭の天辺まで突き抜けるのを感じた。 そして、息を殺し、……その“めそめそ”が、幻聴であることを確認しようとする。
でも本当なら、そんなことをして確認をする必要はない。 だって、この旧校舎に入るにはあの入り口しかない。そしてその入り口は入ってすぐに施錠した。 だから誰も入ってこれるはずがない。こんな時間まで生徒が残って隠れているはずもない。だからつまり、そこに誰かがいるなんてアッテハイケナイノダ…!!!
だからだからつまり、息を潜めて確認するなんて行為自体がすでに、そこにアッテハイケナイコトが起こっていることを認めること……。 でも、それをしなければならないくらいに、…今、めそめそははっきりと聞こえたんだッ?!
……心を落ち着けろ、………そして、耳を…………。 だが、………扉の向こうの、すすり泣く声の気配が、…消えない。…去らない……。 気のせいだ。幻聴だ。精神が高ぶり過ぎて、ありもしないものが聞こえているんだ…。そうさ、こいつは俺が人間だった頃の名残、良心の呵責ってヤツに違いない…。 俺はきっと、殺害現場に舞い戻り、毬枝を殺したことに後悔を感じて、こうして毬枝の亡霊を自らの内側に作り出してしまってるんだ。 つまり、そこに居て、俺を責めてほしいという、良心の甘え。つまり所詮は、
「………そこの人、……どうか哀れな私の話を聞いてください……。」 ……ッッ!!!!
もう、内なる声とか幻聴とか、そんな水準じゃなかった。…それは言葉となって耳に届いた。 そしてその声は、……毬枝以外の何者でもないのだ…。
「ま、………、ままま、………毬枝なのか、……毬枝なのかッ!!!」「………めそめそ……、……めそめそ、………ひっく……!」 相手は泣いてるだけだった。でも、しゃくりあげるような声が、自分の問い掛けに答えたものは明白だった…。 だが、毬枝をあの日、確かに殺して、死体を便槽に放り込んだ。だからここにいる毬枝が生きた存在のわけがない。
……この時の金森は、深夜の旧校舎という異常な世界にあり、……人ならざる世の理を無意識の内に理解していた。 だから、殺したはずだからいないという、人の世の理に囚われず、……素直に、扉の向こうにいる、死んだ毬枝という存在を理解できた。 理解できた……? それはつまり、死んだはずの毬枝の亡霊がそこにいるという、アッテハナラナイ事実の理解……。
扉の向こうの泣き声は、
……いや、…毬枝の亡霊は哀れに泣き続けながら、少しでも責めようと言葉を紡ぐ……。「…………あれだけ酷いことを強いて……、………………その最後が殺すことなんて、…あんまりに酷いです……。…………ううぅうぅぅぅ……。」
「こ、……殺すのは当然さ。……馬鹿かい君は…! あれだけのことをしちまったんだ! 警察に知られちゃまずいと思うのは当然だろ!! 君を生かして帰せば、その足で交番に駆け込んだはずさ。そうだろ?!」「……そんなこと、……しなかったです……。だって、……私がしゃべったら先生、…あの恥ずかしいビデオテープをばら撒くって……。」
「ビデオテープだってぇ?! はっはっはっは、わあっはっはっはっはっは!! あんなもんが脅迫になると、君は本気で思ってたのかい。ははははは、だからその程度の存在なのさ。…あははははははははは!」「……だって、…だって……。…私だって、…普通の生活に戻りたかったです…。だから、…その生活に戻らせてくれるなら、……先生のことを内緒にする約束、ちゃんと守るつもりだったんです……。」
「ははん!
口でなら何とでも言えるさ。君はそうは言いながら、あの日、下校したら警察へ行くつもりだった。そうだろう?! 警察に相談すれば何だってすぐ解決するさ。相談しても埒が明かないってのはテレビドラマの中だけだ! 泣いてる女の子の訴えを無視できる警官なんているもんか!」「………でも、……ビデオテープを先生が持ってる……。…約束を破ったら……、あのテープを先生が……。」
「はは、ははは!
亡霊になっても君ってヤツは…! 哀れだね、本当に哀れだよ! あんなテープ、君が警察に通報することと比べたら何の脅迫にもなるものか! 警察だって馬鹿じゃないさ、そのテープがばら撒かれる前に私を逮捕しようとするさ。
私はダビング機に触れることすらできずに逮捕されて、自宅は踏み込まれテープも機材も全て証拠品として押収さ!! あんなテープが脅迫のタネになるなんて死んだ後まで信じてる、君のおめでたさには、はははははははは!! 死後にまで笑わされるよ。そんな程度の浅はかさだから、その程度の末路なのさ。はははは、はははははははは!」
「……………そんな、……………そんな…………。」 毬枝のすすり泣きが、一層、悲しい色を帯びる…。
「この程度のことが脅迫になると信じてた君のおめでたさには心底呆れるよ。どこの漫画の見過ぎだか! 勝手に下らない知識を吸収して、独りよがりに世界観を構築していった浅はかさのツケさ!! 相談できる友達が1人でもいたなら、それが間抜けな勘違いだとすぐに気付けたろう。でも君は、下らないコンプレックスを理由に友達をまるで作ろうとしなかった。」
「…この世はな、社会なのさ! 社会とは人と人のつながりで出来ている。そのつながりを拒否して社会から零れた君は、まさに社会の落ち零れ。そんなだから、あんな下らないビデオテープが脅迫のタネになると本気で信じてしまうのさ!!」
「ははははは、まったく嘆かわしいね! 君の担任として、心の底よりそう思うよ! 三者面談の時、友達を作ろうと私が指導しても、君はいつだって言い訳ばかりだ! それを死を境に理解できたかと思っていたら! 死んでも勘違いしたままだったとはね!!」
「………わ、……私が、………ばかだったって言うんですか………。」
「あぁそうだね!!
私の口からはっきり言ってあげよう。
君は馬鹿さ!
大馬鹿だ!!
ガキのくせに人生を達観したようなフリをして、自分が社会の落伍者であることを美徳化し、
自身の悩みを打ち明け相談することにすら徒労を感じた落ち零れだッ!
人間社会のピラミッドの、底辺からすら零れたんだよ君は!」
「……そんな……。
……うううぅううぅぅぅ!!」
「君を酷い目に遭わせたのは、ははは、そうだね!
私の個人授業だったんだよ。
君ひとりでは解決できない問題に直面した時、どうすればいいかというね!」
「正解は、誰かに相談する、だったのさ!!
君にひとりでも相談できる友達、あるいは家族がいれば正解のチャンスはあった。
だが君はひとりも友達を作らなかった。
家族にも心を開かなかった!
私があれだけ指導したにも関わらずね!!
だから授業は時間切れになったというわけさ!」
「じ、……時間切れなんかじゃないです……!
……相談は、……しなかったけれど…、
……確かに、友達を作ろうともせず、…誰にも相談しようとしなかったのは私が悪かったかもしれないけど……、
…でも、私は、…………戦ったんです。
…先生と!」
「私が命じれば犬にも猫にもなった、人間の尊厳を捨てた君にしちゃ、まずまずの奮闘だったことは認めるよ。だが、そんなものは何の評価にもならないね! その結果がそれさ!! 君は相手に逆上されて、現にそうして首を絞めて殺されて、しかも肥溜めに死体を放り込まれた!! その無様な結果を以って、私にどう評価してもらいたいというんだい?」
「馬鹿言っちゃいけないね!! 0点だよ0点ッ!! そういう下らない勇気を蛮勇というのさ! そんな勇気より、君は警察に相談する勇気を持つべきだった。それを、それでも選べず!! その結果が今の姿というなら、それのどこを褒めろと言うんだい?」
「ははははは!! 馬鹿は死ななきゃ治らないって言うが、どうやらそれは間違いらしい! 死んでも治らないがどうも正しいみたいだ!! わっはっはっはっはっはッ!!!」
「……ううううぅううぅうぅぅぅッ!!!」 毬枝の魂を死した後にも辱める…。 亡霊は生者より強いなんて誰が決めた? ……そんなルールなんてない。死んだ時点で、生者から落ち零れた時点で、劣った存在なのだ。 毬枝がわずかに持っていた希望、……人間を辞めれば、復讐する力が得られるという幻想が、死した後になって、打ち砕かれていく……。
だから毬枝は今こそ理解した。 「めそめそさん」に自分がなれるかどうかなんて、まったく関係ない。……復讐する力、…いや、戦う力とは、そもそも自分が何を悟り何をするかという力にあることを。 人間以上の存在になれば、人間である担任に復讐できるに違いないという甘えがある限り、そんな甘えた存在に戦う力など宿るわけがないのだ。
その力を持つ者は、人間の内に戦える。…否、戦うとは生きること。それを放棄した時点で、生きることを放棄した時点で、永遠に負け犬なのだ。
だから、すでに死んでしまった毬枝は、戦うという本当の力の意味、……本当の意味での勇気を理解したにも関わらず、………もう、戦いの土俵に上がる資格すらないのだ。 戦うための資格。それが、生きることだった。
命を奪ったのは担任だったかもしれない。 でも、彼岸花に妖怪にしてもらえると聞き、妖怪になれれば復讐できると浮かれ、ならばと持った実に下らない蛮勇だった。 せめてそこでその勇気を、誰かに相談しようという方向に向けていたら、……きっと自分は生きていた。 生きて戦って、あるいは勝って、この運命の出口にいたかもしれない。 それを放棄した! だから自分の運命は永遠にこの男の中に帰結して、どこにも逃れられず、こうして死後も永遠に辱めを受け続けなければならないのだ……。
「……うううぅぅ…! うううぅううぅぅ…!!」 毬枝の声は、もはやすすり泣きではなく、号泣と呼んでもいいものに違いなかった。 ……それは、祟ってやろうという攻撃的な姿ではない。 永遠に辱められることを宿命付けられ、それに抗えもせず泣いて従うしかない、卑しい姿。 毬枝は、これほどまでに自分を悲しい存在だと思ったことはなく、…後悔したこともなかった。
あの日に戻れたなら、犯さなかった間違いがいくつも頭を過ぎる。 被害者気取りで、戦う意思や勇気を失い、奮い立とうともしなかった。 その癖、生きることへの興味を失っておきながら、他力本願な力を得て復讐したいと白昼夢だけを見ていた。 そんな自分に、生きている資格があるとでも…? 死んで当然だった。生きてる価値なんてなかった。だから殺されて当然だった。つまりこれは必然だった。
「……ううううぅうぅうぅ!! ううううううぅぅうぅ!!!」
「ようやく自分がどれほど醜い存在か理解できたようだね。……君のために補習授業ができて良かったよ。そして、ようやく君にも授業の効果が出たようだ。君の後悔の泣き声でそれがわかるよ。だから、これで授業を終わりにしようじゃないか。」 金森は個室と外を隔てる扉の鍵に手を掛ける……。 指が鍵に触れた時、がちゃりと音がして、それが毬枝を大層怯えさせた。「……な、…………何をするんですか………。」
「授業を終わりにするのさ。君は生きる上での大切なことを今、学べたじゃないか。だったらそれを活かすために、君は次の人生のスタート地点に進むべきなんだ。……わかるね?」「………え……? ………ぇ? ………それって……?!」 鍵をガチャンと開ける音がして、その音に対し、毬枝のひ! という短い悲鳴が聞こえた。
……もう鍵はない。金森が扉を開けば、そこにいる毬枝が目の前に晒される。 毬枝にとっては、自分を殺した恐ろしい相手が、再び目の前に現れることになる。 今の毬枝にとって金森の存在は、扉越しでも恐ろしい。それを直視する勇気など、未だになかった。
だが、金森には亡霊となった毬枝を直視する勇気がすでにあった。 なぜなら、亡霊は怖いものという、人の世の理がとっくに拭い去られていたから。 金森は理解した。……亡霊などという存在は、命を失う前と後という区分の、後を指すだけのものだと。 みすぼらしい存在は、亡霊となってもみすぼらしいのだ。毬枝は死んでも毬枝なのだ。生きていようと死んでいようと、何の区別もないことを理解したのだ。 毬枝はそれを理解するのがあまりにも遅かった。……だから、亡霊などという存在に落ちぶれて、今ここにいる。
「さぁ、未だに成仏できない、君のみっともない姿を私に見せるんだ。」「……い、……………………いや、…開けないで……。」
「駄目だね。」「ひぃッ!!!」 まるでギロチンの刃を落とす処刑人のような残酷さで、金森は扉を開け放つ。
……それはとても異様な光景だった。 なぜなら、トイレの個室の扉を内から開けたのに、……そこもまた、トイレの中だったからだ。
だが、毬枝の姿は確かにそこにあった。 殺した日と同じ姿で。 右袖のボタンを失った姿で。 首には絞め殺された時の痣を残して。
「………ひ……………ひぃ……ッ!!」 毬枝が、怯えた声を出して後退るが、そこもまた狭い個室なのだ。逃げるべき場所はなく、すぐに壁を背負ってしまう。 そして、がたがたと震え、金森のおぞましきその姿が、せめてそれ以上近付いて来ないよう、祈るような目つきをした。
「本当に君はどうしようもない落ち零れだね。君くらい出来の悪い生徒は持った試しがない。次の人生では、私に習ったことをちゃんと活かして、有意義な人生を送れるよう祈ってるよ。」
「……な、…何をする気なんですか、………先生……。」
「そんな姿で私の前に現れるということは、どうやら自分が殺されたことがしっかり理解できてないかららしい。……君の新しい人生がやり直せるよう、先生がもう一度、君を絞め殺してあげようって言うんだ。」
「……い、………いやぁッ!!!」 その怯え様は、生きていた時の毬枝より過剰なものだった。
死の壁を通り抜ける時の苦痛は、死んだ者にしか理解できない。 それを、もう一度与えられることを知った恐怖は、その異様なまでに怯えた形相から想像するほかない。
「……いやです、……もう嫌です……、殺されるのは、もう嫌です……!!」
「嫌ならどうする? 相談するのが正しいが、ここには相談できる人はいない。君の身ひとつだけさ。なら、どうする?」
「ぅう、ぅ、…ぅわあああぁああああああああぁああッ!!!」
毬枝は泣き叫びながら金森に掴みかかる。そのか細い両腕が金森の首に掴みかかるのと同時に、金森の両腕も毬枝の首に掴みかかる。「そうだ、今は戦うのが正しい。今この瞬間だけを見れば正解さ。だが、非力な君が、私と一騎打ちしたって勝ち目がないことは、すでに立証済みだったんじゃないかい? 君は死んでも、やっぱり落ち零れなのさッ!!」
互いに相手の首を絞め合うといっても、力の差は歴然としている。 万力のような力で締め付ける金森に対し、毬枝の力はすぐに抜けていく……。 いつしかその両腕は、金森の首を絞めるためではなく、金森の腕に力なく抵抗するものに変っていった。
「君ひとりでは打ち勝てない難題なんてこの世にはいくらだってあるッ!! それを乗り越えるために人は社会の力を借りるんだ。それを怠った君の末路は、例え二度繰り返そうとここに帰ってくるんだ。……これで成仏できないなら、また何度でも私のもとを訪れるといい!! 何度でも何度でも、殺された時の苦しみを思い出させてやるッ!! 何度でも何度でも、お前を絞め殺してやるッ!!!」
「……ぅうううっぅぅ、く……ぅ……!!」 毬枝の脳裏に蘇る、生と死の境を潜る時の恐怖と痛み…!! そして、死した身でありながら、首を握り潰される激痛と、窒息する苦しさに呻く。
「さぁ、間違いなくもう一度死ねッ!!! 森谷毬枝ぇええッ!!!」
「……………………………ッッッ!!」
ゴキリ……。 以前に絞め殺した時にも至れなかった手応えが伝わる……。 その瞬間、毬枝の体がガクンと大きく震え、……首は斜めに傾ぐと身動きしなくなった……。
「あはは、はっはっはっはっはっはっはっはっはッ!!!」 金森はそれでもなお絞め続ける手を緩めず、悪魔のように笑った。
その時、この場にいるはずのない声が響き渡った。「ゲームセットね。これでどちらが『めそめそさん』に相応しいか、はっきり決着したわ。」
声のした方を見上げると、トイレの個室と個室を区切る敷居の上に、あの保健室で見た西洋人形が座っていて見下ろしていた。 人ならざる存在を理解できる今の金森にとって、その存在は不気味なものでもなんでもなく、毬枝と自分の決闘の正式な見届け人に違いないと思った。 だから、ニヤリと笑って言ってやった。
「えぇ、そうですね。これでゲームセットです。森谷さん程度の器では『めそめそさん』なんていう、学校に永遠に語り継がれる妖怪のポストなど身の程知らずもいいとこです。」
「そうね。学校妖怪の末席を許すにはまだまだ役不足ね。あなたの方が、むしろ邪悪でその任に相応しいと思ってよ。あなたほどの人なら、きっと学校妖怪に混じっても、見事にその席を守りきれるでしょうね。あなたのような人が末席に加わったなら、私もうかうかしていられないわ。」
「はははははははは! なるほど、これは君たち学校妖怪の、どちらが『めそめそさん』に相応しいかのテストだったというわけかい。粋なマネをするね!」
「そうよ。投票はしたけど、3人が毬枝に、3人があなたに票を投じた。私は棄権して別の提案をしたの。当事者同士にその座を賭けて争わせたらいいってね。」
「なるほどね。保健室で君のボタンが飛んだのは、そのテストへの誘いだったというわけだ! ははははは、なるほどね、はっはははははははは!! だが、こうして結果は出たね! どちらが『めそめそさん』に相応しいか!!」
「えぇ、結果は出たわね。とても残念よ。」
アナタミタイナ邪悪ナ人ヲ、ウチノクラスニオ迎エデキナクテ。
「………え? ……ぉ、……ぉぐ…ッ、」
その時、金森は自分の両手首がものすごい力で捻り上げられるのを感じた。 驚き、目線を前に戻すと、……すでに白目を剥いて涎さえ零している毬枝が、…金森の両手首を、ものすごい力で捻り上げているところだった。
その鈍い音は金森の手首の外れる音なのか、手の甲の骨を砕く音なのか。
「ぐ、……ぐううぅう、……ぐ、……ごごごご、は、…離せ………、」
くすくすと笑う彼岸花は告げた。
「残念よ。
あなたくらい邪悪な人にはそうそう会えないから、
ウチのクラスにお迎えできなくて本当に残念。
……私があなたたちに試したかったのは、
どちらがより邪悪か、どちらがより妖怪に相応しいか、じゃなくて、
…どちらが『めそめそさん』に相応しいか、よ。」
「………金森。あなた、『めそめそさん』になりたいって言ったのに、『めそめそさん』のルール、…忘れちゃった…?」「め、……めそめ、……ルール……?
ぎゃッ!!!」 今や、金森の両手首の骨を粉々に砕いた毬枝の両腕が、全身を抱擁するように抱きしめる。 だがその抱擁は愛のなせるものではない。 全身の骨を粉々に砕いてしまおうという、悪意ある死の抱擁。
「は、…離、………き、………げ…ぇ………、」 金森のあばら骨がキシキシと泣いて悲鳴をあげる。その音を小気味よさそうに聞きながら、彼岸花は続ける。
「そうよ、『めそめそさん』のルール。『めそめそさん』に出会ってしまったら、話し掛けてはならない。正体を見ようとしてはいけない。………あなた、そのルールを全部破っちゃったわ。だから毬枝の勝ちよ。」
「そ、…………き、………ぎぇ…………、」 とうとう、金森の体から小骨が折れる音がひとつふたつと漏れ始める。
「うふふふふ。毬枝、やっちゃえ。」 彼岸花がくすくすと笑いながら、最後の止めを毬枝にせびる。
だが、毬枝はそこで一度だけ腕の力を抜いた。 その表情は、白目を剥いた恐ろしいものではなく、……毬枝本来の表情だった。
「………ありがとう、先生。…先生の言葉はとても汚くて辛いものだったけど、……でも先生の言う通りだったと思います。…私は、先生に教えられなかったら、死んでも自分の罪が理解できなかったかもしれない。……それを、こうして死んだ後であっても教えてくれたことに感謝します……。」「……ま、毬……ぇ……、」
「ありがとう、先生。………いじめっ子たちから庇ってくれてた一番最初、………好きでした。」
「ゆ、………許ひて…………、……はがッ、」
そして、異音…。 身近な音に例えるなら、新聞紙を乱暴にゴミ箱に突っ込む時のようなぐしゃぐしゃという音。 でも、その音は紙のように軽くなく、聞くだけで気分が悪くなりそうなおぞましい音……。 それは金森の、全身の骨が粉々に砕かれていく音だった……。
もう苦痛の声も漏れない。口からは幾筋もの血を溢れさせている。 そこから聞こえるごぼごぼという音は、もはや言葉すら許されない金森の断末魔なのか、内臓の奥底から全てを搾り出されてくる臓器の喘ぎなのか、もう区別がつかない。 そして、…人の体で一番太い骨が、ごきりと折れる音が聞こえた……。 聞いていたのは夜の虫の声と、学校妖怪が2人だけ、だった……。
「おめでとう、『めそめそさん』の毬枝。あなたが選ばれたわ。みんなの拍手が聞こえる?」
「………………いいえ。」
「くすくすくす。みんなも姿を現せばいいものを。勿体ぶってるわね。恥ずかしがり屋さんばかりなんだから。……もっとも、もう少し力をつけないと、あなたに知覚するのは難しいかもしれないけどね。」
「……学校妖怪のみんなと、私は仲良くできるでしょうか。」
「さぁ、難しいんじゃない? 人間の友達すら作れなかったあなたに、人間じゃない存在の友達を作れるかしら?」
「がんばります。……やり直せぬ人生なら、この新しい人生で過ちを、せめて取り返したいので。」 その表情は、毬枝が今日までに見せてきた表情の中で、一番、決意に溢れたものだった。
「………ふぅん。死して堕落する子は多いけど、死して決意する子なんて珍しいわね。やっぱり毬枝は面白い子、……いいえ、変な子よね。くすくすくす……。」 彼岸花が敷居の上から飛び降りると、図書室で出会った時のような人の姿になる。
「そろそろみんなもあなたの自己紹介がほしいところのはず。それに、あなたの新しいクラスになる私たちの教室にも案内しないとね。」
「……クラスって、……B組ですか…?」 彼岸花の胸にある名札には、学年の欄は空欄で、クラス名にBと書かれていたからだ。 かつて、雨に滲んだようで読めなかった名札は、なぜか今はくっきりと読めるようになっていた。
「B組? 違うわ。13組よ。字が汚くてごめんなさいね。」
「13組……。」 そんなクラスはこの学校のどの学年にも存在しない。 でも、そのクラスの教室は、確かにこの学校に存在している……。
「おいで、『めそめそさん』の毬枝。『踊る人形』彼岸花の手を取って。」 彼岸花がそっと手を出す。 毬枝は少しだけ躊躇した後、それを握った。 怖かったからじゃない。
「学校妖怪の役目は大変よ? 夜の闇をもっとに暗く染め、不吉と邪悪で覆わなくてはならない。」「…………は、…はい。」「夜の闇が暗かったならば、…その分だけ、昼間の学校は明るく照らされる。邪悪な教師がひとり、夜の闇に飲み込まれれば、その分、昼間の学校はマシになるでしょうしね。」「……あは、ははは。」
「でも、おめでとう。これが初の白星ね。せっかくだから、しっかり数えておいた方がいいんじゃない?」
「数えるって、何をですか…?」
「くすくす。……祟り殺した人数よ。これが毬枝の1人目ね。」
「い、…いやです、そんなの数えるの。」
「くすくすくすくす。まぁ、そこが毬枝の面白いところかしらね。そんな気弱そうな振る舞いだと、ウチのクラスでもいじめられちゃうかもしれないわよ?」
「い、…いじめられたら、…友達に相談します。」
「友達って誰?」
「ひ、…彼岸花さんは、友達になっては……その、…くれないんですか……。」
「この『踊る彼岸花』に友達になれ…? ………くすくす、うふふふ、ははははははははははは。もう少し友達は選んだ方がいいと思うけれども。」 彼岸花はしばらくの間、こんなに滑稽なことはないとでもいう風に、お腹を捩って笑う。 それもやがて収まり、肩を竦める。
「……毬枝がそれでいいなら、それでいいわ。
…本当の私を知っている人なら、そんな命知らずな申し出は絶対にしないしね。無知のなせる業かしら、くすくすくすくす……。」
「彼岸花さんは、冷たそうだけど、その、いい人だと思いますので……。」
「……本気で?」「はい。」
「…………ふぅん。」
「……ご迷惑ですか……。」
「…………。」
「…………。」
「……ありがと。」
「え?」
彼岸花が毬枝の手を離し、廊下の先へひとり歩いていく。「こっちよ。わかる? 廊下が伸びているのが。…人間のクセが抜けないと、知覚できないわよ。見えてる?」
「は、はい! 見えてます!」
あるはずのない廊下が、闇の向こうにずっと伸びている。 人間だった頃、そこは壁だったはずの場所が、今やさらに遠くまで廊下を延ばしている。「さ、おいで。」 彼岸花の後を追い、毬枝もその闇の中へ入っていく………。
……その日を境に、金森の姿を見た者はいない。
もちろん、森谷毬枝の姿も。
でも、保健室の主と呼ばれ、彼岸花と呼ばれる西洋人形の姿は、今も薬品棚の上にある。
旧校舎の奥にあるトイレには、妖怪が住んでいるという噂があり、夜な夜な、その祟りに触れ絞め殺される、哀れな教師の悲鳴が漏れ聞こえるという話である……。
これは、近隣の学校の統廃合に伴い、大きなマンモス校になって大勢の生徒数を誇り、のみならず、学校の七不思議が、さらにもう一つ多いという不思議な学校の物語……。